リツエアクベバ

satomies’s diary

ほめられたい

 ↓、5月2日更新分からの発展。
 まず一個エピソード。わたしの母校である私学一貫教育女子校は短大女子大があって、まあそこに行く子は多いのだけれど、わたしは外に出た、と。そして新しい学校という場の仲間たち総勢50人弱と夏休みに学校の施設があった八ヶ岳に旅行に行くわけで。
 風呂にね、入ったのよ。人数多いからぞろぞろと。で、浴槽に入っていたわけだ。そうしたら隣にいた女の子の胸がふと目に入った。
 わたしは思わず目を奪われたわけだ。なんと美しい、と。これは神様の作品だ、と思った。
 北国出身だからなのか、抜けるように白い肌。その美しい肌と胸の隆起。その先っちょにつんとあるヤツのその脇、腕の側から見える胸の隆起のカーブのあたりに、真っ黒なほくろがあった。胸の先っちょのつんとあるヤツより少し小さめくらいの、ほくろとしてはでかめのほくろ。ほくろのある位置と、そして白く美しい肌とこの真っ黒なほくろのコントラストはドキッとするほど美しかった。
 わたしはきゃーきゃーと歓声をあげ、手をたたいた。すごい、ステキ、美しい。美しいものに対して、とても素直に賞賛を惜しまなかった。きゃーきゃーきゃー、なんてステキ、なんて美しい、と。
 そうしたら。そのすぐ横にいた女の子が、アタシはアタシはアタシもこんなとこにほくろがあると、わたしの目の前にどどんとケツを突き出した。
 今のわたしだったら、そりゃ手をたたくかもしれない。若く美しいケツだからね。でも自分だって若かったわけだから、そんなあなた普通のケツの普通のほくろで、しかもケツを目の前に突き出されて、なんかどうしていいかわからず、ここは手をたたかなきゃこのケツは目の前から消えないぞと思って力無く手をたたいた。
 いやこのケツ女がイタイってことではなくて。女の子ってのは元々そんなものかもしれないと思う。こういう素直さで即座に表出できるかできないかではなく。
 ただ、素直に即座に表出できない場合、そのほくろはどうだこうだ(論理批評的)なんてことをやったり、ケツ突き出したり、スルーで流したり、ってことになるのかもしれない。実際このときも、わたしの感動を共有しようとする女の子はこの場にいなかったしね。あのほくろすごかったのに、美しかったのに。わたしはこういう感動をしたい方の欲が多分強いんだろうと思う。
 それでもって、このめんどくさいような心のやり場ってのは、自分を好きと言ってくれる男性に投入される場合があるのかもしれないとも思う。わはは、わたしはそうですポリポリ。
 さてうちのぼっちゃんぼっちゃん。彼は男だ。とりあえず同性愛思考はないようで、初恋に大量のエネルギーを注ぎ込んだヤツなので、母は教育する女ってヤツを。ねえおかあさんアレがどうでこれがどうで、ふむふむ、なんてあいづちの合間にナニゲに投入する、ねえ愛してる?
 ぼっちゃんぼっちゃん、すでに軽くスルーの域に入っております、なんなんだ?とさえ言わない。チョコが好きといえば、ねえわたしとどっちが好き?という質問をぶん投げる。幼児期は「おかあさんはおかあさんでチョコはチョコで、おかあさんと食べ物は比べられないでしょう?」などと一人前に説得にかかってきたが、そのうち軽く「おかあさん」と答えるようになり、そして堂々と「チョコ!」と答えるようになってきました。この経緯をコースでやってればまあたいがいの場合は応用が利くだろう。女なんてものはこのくらいめんどくさいものだと知ってればよろしという母の教育。