リツエアクベバ

satomies’s diary

先の姿

娘がまだ小さかった頃。その頃参加していたダウン症の親のグループでのこと。ある仲間の言ったこと。

ダウン症の告知につぶれそうな思いを抱えて、ダウン症の親のグループの会合に出た。
先輩ママのひとりが会合終わりに「あたしこれからテニス行くのー」と、ラケット持って楽しそうに出て行ったと。
それがすごく衝撃だった、という話。

まあ要するに、ダウン症の子を産もうが母本人の個性や生活はあり。
ふつうのしあわせがそこにはあり、なにかをあきらめなくてもいいんだと思ったと。
すごくいい話だよな、と思った。

今日、ダウン症の小さい子のママと話す機会があった。
将来の姿が見えない、わからない。
そんな気持ちの話。節目節目で感じることはたくさんある。
いろんな話を聞きながら、あとでメール入れた。

先の姿。
で、どう思うかわからないけど。

「11月に娘と二人でライブに行くの。BUMP OF CHICKEN 東京ドーム!」

まあ、チケット入手の喜びがあふれまくってる今日この頃なんですがね。
あの日のテニスラケットのねーさんになれたかな。

7回目

猫が死んで7回目の水曜日がきた。今日も水曜日のネコを飲む。
木曜の朝死んだので命日は6月13日。気づけば今日が、いわゆる四十九日にあたるようだ。

今までいろいろな人を送り、それぞれの喪主の選ぶ儀式に手を合わせてきたが。わたしにとってはそうしたことすべてが「社会とのつきあい」だったのだなと思う。
大事な大事な猫を失い、わたしはやりたいことしかやっていない。

棺に花いっぱいにしたのは、やりたかったからだ。
斎場で「ここでお別れです」と言われた時、「よろしければ焼香台をお使いください」と言われた。わたしはそれを断り、「ぷったん、ばいばい」と棺を閉めた。
誰もいないんだから、やらなきゃいけないなんてことはない。大人ぶりをどこかの大人に見張られることもない。葬式仏教にもっともらしく参加している化けの皮がはがれたようなもんだ。

骨になってすぐ、義妹が線香をと言ってきたので「いらない」と言った。部屋にはあちこちに残り香がかすかにあった。そのかすかなそのうち消えていくにおいを、わざわざ線香でぶち壊すのは嫌だった。だいたいそんなすぐに線香とか、そんな葬式くさいことはいやだった。「生育歴の中に仏壇が無い」と、義妹に理由を説明した。わたしには仏教文化が生活に根付いてない。
そのうち日がたち、線香でもあげるかとなった。中華街で買った象のお香立て。ガラスの器。

もう抱けない、さわれない、と思ったが。数日前に骨壷を抱いた。なんだ、抱っこできるじゃないか、と思った。
埋葬は秋の予定。それまでは時々抱えてみる。

今日は病院

ずいぶん前から出てはいたのだが、最近ひどくなってきた。と、義妹が舅の湿疹について話す。これが土曜日のことで。
では皮膚科だな、と。駅の近くの皮膚科を調べて義妹と夫で連れて行った。
たいした時間もたたないままに帰ってきた。とても混んでいて2時間待ち必至な状況だから今日は早めに受付を切り上げたと。だから受付時間内に行ったのだけれど、丁重に門前払いをくったということに。

あのさ。
わたしは自己中でわがままでいやなやつなんだろうと思うのだが。
93の。歩行もよろよろで視力もかなり弱っている舅に付き添い二人でいって、受診無理だから今日はおかえりって。こう90代の人間がされることか、と思った。
そんなにほいほいほいほい出ていけるわけではないんだよ、と。
特別扱いしろとは言わないが。ふつうに体力ある人と同じような対応かと。
ああ、ずいぶん前にNHKの道徳番組でやっていた。交差点の信号の青の時間。普通の人は普通に渡れる時間だけれど、年寄りが渡りきる時間ではない交差点。
この「青の時間」をなんびとにも平等というのはそういうものだと言えるのか言えないのかという問い。あれと似たようなものだと思う。

夫一族はみな温和なので、しょうがないしょうがないと言う。
ああ。わたしが舅が出る前に、クリニックに電話して状況を聞けばよかったのか、と後悔する。
受付してもらっても、2時間待ち必至なら仕方ない。でも、ただ帰すだけじゃない何かとかないものか。

子どもたちが小さい時。小児科もいつもずいぶんと混んでいた。冬の風邪の時期はなおさらだった。
いかにもいかにも苦しそうな幼児を連れた人がいて、本当に気の毒だったことがあって。受付の人にあの子はなんとかならないものかと言ったら「ではあなたと順番を交換してください」と。
それであの日、すでに1時間くらい待っていたうちの子たちは、さらに1時間くらい待つことになった。まあ再診で待てる体力はあったしね。
うちの子たちは、おかあさんが譲れないもののためにやたらに待たされることにはなった。でもそういう母親の子になったのだから、それはもう仕方がない。
「患者さんの状態によって順番が前後することがあります」って受付に書いてあるところはある。わたしはそれは当然だと思う。病院なんだから。

さて。
土曜日にそんなこんなで受診出来なかった。月曜日は別のクリニックの受診があった。そこで皮膚科受診のチャレンジは火曜になった。
車で行ける、家からタクシーでも行ける、総合病院の皮膚科に行くことにした。
足元が危うい。余裕持って車の乗り降りができる環境をと考えると、大きな病院の方が良かろうということになった。
事前に電話で状況を聞いた。皮膚科は再診は予約制。初診の場合予約者の合間に受診なので待ち時間は長くなるとのこと。
そこそこ覚悟して、義妹と二人で舅を連れて行った。

2時間は待つことになりそうだ。と、皮膚科の看護師さんが申し訳なさそうにわたしたちに言う。仕方ない仕方ないよね、と、なんとか言える程度には、待合室は居心地がよかった。
その上で、特別な対応をしてくれた。初診にまだ入ってないが、ご高齢で負担大を考慮。初診にまだ入ってないが特別な対応として明日の診療時間に予約を確保。明日の約束ということで今日は帰ることに。通常はできないやり方だが、高齢ということで配慮して提案いただいた。ありがたく甘えさせていただくことにした。

外は灼熱だ。ただでさえ体力は奪われる。そんな中、特別だよと提案いただくのは本当にありがたかった。

帰路、義妹と話す。
3月4月5月と、舅の入院もあったが義妹を連れての病院回りもあった。いろんな病院いろんな医師に会ったが、結局は出会いたいのは人間性だった。
今日は看護師さんも受付の方も、その連携も非常にありがたかった。

明日も暑い。
義妹は舅をタクシーで連れて行く。パートを終えたらわたしが車で迎えに行く。

かき氷

急に暑くなって、ヤバい。
ふと思い出して、かき氷機を引っ張り出した。今はもうアラフォーになる姪っ子たちが幼児の頃、姑が買った年代物。
うちの子たちが小学生と幼児の頃、ゆずり受けた。随分前はガリガリとよくかいたものだが、あれはアレだ。子どもたちは美味しいが、おかあさんは重労働だ。ガリガリガリガリガリガリガリガリ
自分の口に入るころには、もう暑いわ。もういいわ的なもので。

今日は、まず自分にかいた。
誰もいない時間に、自分のためだけに。
次に、順々に帰宅する家族に「帰宅後駆けつけかき氷」を出した。
一度に一人分だけかけばいい。これはずいぶんラクだ。

久々に引っ張り出したかき氷機には、ポケモンシールがベタベタと貼られていて懐かしくてふんわりと思い出にひたる。
単純な機械はいつまでも使えていいね。

夏本番と猫の夢

暑い夏が始まった。もわもわと空気が熱い。そういえば夏ってこういうものだった。去年はとっくにこんな感じに慣れてる時期だ。
雨ばかりの7月で感覚がどこかずれてる。これからずっとこんな空気を外にもっている生活が始まるかと思うとうんざりする。

猫が。
と、また猫のことを考える。
不調が始まったとき、この夏は超えられないかもと言われた。
確かに無理だったと思う。朝から冷房で室温をコントロールして気が気じゃない生活をしながら、悲しむ日を迎えることになっただろう。
逝く日は時期としてちょうどよかったんだろう。

猫が。
また猫の夢を見た。
うちに2匹、当たり前のように猫がいた。
1匹は昔実家で飼っていたキジ猫のぺーちゃん。この子はもう死んで20年くらい経つ。夢の中ではのそっと中年期くらいの感じだった。
いやぷっちゃんだのぺーちゃんだの、そういうことじゃない。ぷっちゃんは息子がつけた名前だし、ぺーちゃんは姉がつけた。ぺーちゃんの正しい名前は「パトリシア・ぺピータ」だ。バカバカしいから「ぺーちゃん」になった。
もう1匹は白茶トラの子猫だった。子猫らしくむやみにいろんなものとじゃれて転げ回っていた。

はて。この子はなんでうちにいるんだっけ。
考えても考えても、この白茶トラの子猫のストーリーがさっぱりわからなかった。
この子はなんでうちにいるんだっけ。

目が覚めてもずっと考えてた。
この子はなんでうちにいるんだっけ。

いや、いねーし。
と、気付くのに時間がかかった。
いつかこの白茶トラの猫と出会うのかな。

ちょっと前にドラッグストアに行ったときに、サービスでもらえる水の有料ボトルが安売りしてた。

前に同様の、スーパーでの水サービスのボトルを買ったことがあったなと思い出す。
最初だけですぐ飽きたな。

とか思いつつ、安売りとか。とかで結局ボトルを買う。
水をもらう。
冷蔵庫で冷やす。
飲む。
美味いのか?
美味いよ、冷えてるから。
うーむ。

思い出して、以前買ったボトルをよく洗い、スーパーにも水をもらいに行った。
「加熱処理用」と書いてあった。
こんなの書いてあったっけ。

今日、その水で米を炊いて、味噌汁を作った。
美味いのか?
美味いよ、炊きたてだし。
ダシ、ちゃんととってるし。

あれ?水の味は?
よくわからん。
とりあえず満足。

またもらいに行くかな。

第二段階

水曜の夜に見た夢。死んだ猫が現れたのに、それと引き換えのように骨壷が消えていることを受け入れられなかった自分。
今日、写真ではなく骨壷ばかり見ている自分がいた。そうか、キミは骨か。
いなくなったのではなく、いるのだな。骨だけど。
ああ、これが死んでも「いる」という感覚の入り口なのかもな。

死んでも心の中に「いる」という感覚。そこそこ歳をとってきたので、親も亡くしたし、友人も亡くした。「いる」という感覚はわかったような気でいたが、なにしろ実体験の前にフィクションやそこらで刷り込まれてきたようなもので。
そこなぞるようなことを「杖」にして、喪失感と向かい合ってきたようなものだったのかもなとか。

まあよくわからないが。とにかく今日は骨壷を見るたびに、失った猫に会っているような気がする。
元々抱かれるのは嫌いな猫だったし、向かい合ってどうのとかより傍にのそっと「いる」ような晩年だったので、いつもいた場所にいるだけだし。形変わったけど。

まあよくわからないが。ひと月と少しかかって、わたしは第二段階に入ったようだ。