リツエアクベバ

satomies’s diary

「教育」ってなんだろね、と思う

いや実はこのニュースにはこんなことを思ってました(8月25日更新分)

このニュースで思っていたことは、「障害」と、そしてプラスして「犯人となった中学生」のこと。結局コメント欄にぶつくさ書いた。
http://d.hatena.ne.jp/satomies/20080825/p1#c
娘は高二。小学校までの送迎を一時期ベタでやってたこと、地域の子ども会行事で娘に付き添っていたこと。なんてことから、夏の地域の盆踊りでの娘の同級生だった子たちの「同窓会的輪」の中に、彼らはちょこちょことわたしも入れてくれる。
二人、高校をやめてた。働いてた。一人は私立高。一人は公立の定時制。働くために定時制なのではなくて、公立に行くにはこの子の学力では定時制しか選択が無かった。普段の成績が良くないと内申の足切りで普通の公立の高校を受験できない。私立か定時制か。公立普通高校の公は全ての子どものためじゃない。私立進学の経済が無い子のためでもない。
中学での学習。ある一定の学力が無いと塾行かなきゃ無理だ、というのはなんかもう「普通の」感覚。塾代も安くない。
高校をやめた二人、定時制に行った子。結局二ヶ月しか行かなかった、と。「なんで二ヶ月でやめたの?」と聞くと、「5月に『こんな学力じゃ、いつまで経っても進級は無理だ』と言われた」と。その言葉をはね返すモチベーションが見つからなかったみたいで。働いて目の前の金を稼いで、目の前の「欲しいもの」を買う方が、モチベーションになったみたい。
これはこの子だけの問題なんだろうかとも思う。小学校から中学。いきなり出てくる「どこの高校に何人」、みたいな社会。学校も塾も。授業のノート提出、プリント提出、ワークブック提出。そのひとつひとつに内申のための評価。AだのBだのCだのプラスだのマイナスだのなんだのかんだの。
時間を戻せるものなら、勉強みてやりたかったなと思う。学歴がどうのとかってことを越えて、ここまでわかる、みたいな実感をもたせてやりたかったなと思う。「こんな状態ではダメだ」と、否定の言葉の突き放しだけではない経験をさせてやりたかったな、と思う。
ウチの坊やはあんまり成績が良くない。学習面での彼の弱点が、いろいろな教科に影響していく。彼の弱点に合わせたやり方で勉強を見てやる。
「あのね、点数自体がどうのってことじゃない。でもさ、10点だの20点だのだったら、なんか自分自身が否定されるような気持ちになってつらくなるだろ? わたしはそこを助けてやりたいと思うんだよ」って言う。
「ちぃちゃんはいいよなあ」ってのはよく出る。まったくだ、とも思う。知的障害があって「できない」ということで、支援と共に、普通の同じ年齢の子が追い立てられる境遇からは解放される。
そういや中三の頃は。近所でこの子たちに顔を合わすと心配そうによく聞かれた「ちぃちゃん、高校はだいじょうぶ?」。自分たちだって大変なんだから、自分たちよりもっともっと学力にハンディがあるちぃちゃんはだいじょうぶだろうかという「心配」。
「ありがとう、だいじょうぶだよ。ちぃちゃんの行った養護は高校まで付いてるからそのまま行ける」と答えると、いつも彼らは心底ほっとしたような顔をしてた。その顔を見ながら(ああ、きついんだな)って思ってた。
知的障害者ねらい暴行、恐喝」。この見出しで犯罪を報道される13才から16才の「少年」たち。この子たちはどんな経緯で「人から金を奪って遊ぶ方が、努力だのなんだのよりお手軽」な方にいったんだろうとも思う。他者を傷つけてもいいのだと、そう思う元につながっていったのはなんだろうか、とも思う。自分よりハンディがある子どもに対して、そのハンディを「攻撃に有利」ととらえていくようになった大元はなんなんだろうかと考える。
この子たちを悪質、悪質と責め立てるのは、どうにも簡単なことのようにわたしは思う。生まれたときはみんな「かわいい赤ちゃん」だっただろうに。どうにもなんか、いろんなことを考え込んでしまう事件。