リツエアクベバ

satomies’s diary

一年経ったねえ

18日に、幼小中と息子の同級生だった子の母と話す「一年経ったねえ」。前日の17日は神奈川県公立高校後期選抜の受験日だった。受験までもそもそと不安を話し合った彼女と話すと、一年前の今頃をありありと思い出す。
一年経った。息子本人も今の時期の自分のドラマを思い出す感があるみたいなことを時折口にする。わたしも去年の今頃を思い出して、はーだのひーだの言ったりする。その様子を見ながら、「また再来年、そんな感じになるんだよ」とか言ってくる。
いや、その時はまたちょっと違うんじゃないか?とか返す。「なんで?」と聞くので、「だってその時はもう18でしょ、いい加減いいニイチャンじゃないか。高校受験は14だの15だののまだまだ子どもが、はっきりと○だの×だの下される経験をするんだもの。そのことを思うとずしんと来るのが高校受験なんだもの。15と18なんて、たった3年だけど全然違うよ」とかなんとかと答える。いや多分。でも再来年になったらまたヒーヒー言ってるんだろうか自分、わからんけど。
神奈川の大手塾が入試の二日後に自分とこの生徒が自己採点して出した数値をもって「自分とこの生徒の平均点」を出す。そだそだと思い出して、今日の午後出てきた今年の数値を見る、ふむふむ。改めて思うこと、うちの坊やは去年受かりはしたが、けして安心できる点数では無かった。ああホントに受かってよかったなあと思う。
なんとか合格できる点数で入りたい高校に入った息子。学校生活が落ち着いてきた頃に周囲と内申の数値や当日の点数の教えっこなどし始めて。その周囲の数値を家で報告しながら「受かってよかったああああ」とか叫んでた。息子の内申も当日の点数も、彼の周囲の子の点数と比べるとはっきりと低かった。「危なかったのかな」と聞くので、「安心できる数値ではなかったけど、すれすれではなかったとは思うよ」とか答えてた。
そんな状態ではあったのだけれど。前期が終わる頃には彼は「優等生」という立場をモノにするようになった。中学の時の優等生層が自分の周囲から消えたこととか、本人の真面目さが高校入学後も続いてることとか、成功体験の積み重ねでノッテキタこととか、まあアレコレ推測の材料になりそうなことももろもろあるのだけれど。事実としては学年のトップ層に入る教科をいくつか持ってる人物という存在になってた。受かるのかどうなのかぎゃおぎゃお言いながら受けた数検の3級だったけれど、余裕の顔で受けた準2はさらっと合格。定期試験前に同級生に「教えてくれ」と言われるとか、「お宅はいいわよ〜」と母同士の会話で羨望の言葉をいただけるとか、母子共に「そんなこと、慣れてねーよ」的現象が出てきてびっくり。
笑えてしまうのは。息子がお勉強する「姿」が変わったこと。この子は今も定期試験前のお勉強を居間でやる。その時に。以前は座ったら即集中だった、居間で。そして何時間も何時間も集中してた、居間で。普通は(さあやらなきゃさあやるか)って時に、なんかそれなりのその子なりのくだらん儀式みたいなの無いか?なんとなく。で、その、なんか自分なりのこう、それまでのなんかくだらん線みたいなの見られたくないから、自室で勉強するとかってこと、無いか? それがさ、無いんだなこの子、って感じだったんだ、今まで。座ったら、本だのノートだの開いたら集中だった。何時間も何時間もに(この子、すごいな)とか思ってた。
ところが。今は、いわゆる普通の子みたい。集中するまでにくだらん儀式はあるし、始めてからも時々なんだか集中の寄り道がある。(わー、普通になったー)とか思う。以前がせっぱ詰まってたのかも、とも思う。その自分に対しての追い込みで、この子は伸びてきたんかな、とかも思う。
そしてまたまた笑えるのは。彼に対してのわたしの目線が変わったこと。前は集中してれば(すごいなあ)とか思うけど、集中してなくても特になんとも思わなかった。それがさ、今は要するにマイナスポイントが目に入るんだよね。わお、普通の子みたいだ。ねえねえあのさ、アンタ出世したねえとか言ってしまう。
草の上で愛をさて、今年の試験問題を新聞で見る、ふむふむ。息子は数学と理科をチェック、わたしは国語の問題を読み耽る。小説問題の文章のクライマックスでぶわっと涙。思春期の子どもに対して引用箇所としていい問題だと思う。当日の受験生には味わっている余裕なんぞ皆無だっただろうと思うけれど、これを過去問として解いていく子の心には響いていくんじゃないかと思った。(「草の上で愛を」著:陣崎草子)