リツエアクベバ

satomies’s diary

steel-blueさんからトラックバック

支援は自分で組み立てるしかないのかも/発達障害メモ

 まとまりません、がっつんがっつんいきます。

支援を自分で組み立てる

 自分の存在、自分の生、に、支援が必要なのだということ。このことに対してどどんと向かい合って、その向かい合う力が他者にも力を与えている存在。
 わたしがもつ安積遊歩さんという方のイメージはそんな感じ。自分が必要とする支援に対して堂々としているところに反感を持つ人も、そして彼女の堂々とした言動に堂々とし過ぎるとかおおげさだとかと言って嫌う人もいるのだけれど。
 まあそんな好き嫌いはさておいて、彼女の強さというものがピアカウンセリングによって支えられ培われてきたという要素があるということ。わたしにとってはここが大きい。実際以前聞きにいった彼女の講演には、障害ということと全く関連の無い立場のファンが来ていて、あり得る話だよなあとも思った。
 「支援を自分で組み立てる」というときに、安積遊歩さんという方の存在を知っているかどうかということは、組み立てる必要のある人の根底の力に影響するものなんじゃないかとふと思う。

発達障害者支援センター

 steel-blueさんの文中に、すっと出てくる「発達障害支援センター」という言葉。これはもう知ってる人しか知らない、という単語になるんじゃないかと思う。はてなブックマーク厚生労働省のサイトの関連するページを資料としてクリップ。「発達障害の現状と支援法について」というページの組織図が、名実共に有効に機能するまでにはまだまだ時間がかかるんじゃないかと思う。
 有効に機能していく道のりの中で、と、いうときに、思い出す人物はやはりカイパパなる方。ブログの書籍化ではなく、ブログという媒体によって出版社に見いだされた、出版されるべき書籍を生む可能性をもったブログ。そして書籍が生まれたってことなのではないかと思う。いやさすがぶどう社とも思う。

支援を受けるという要望をもって相談に行く

 「支援を受ける要望をもって相談に行く」ってときに、忘れられないのはHANDS世田谷の方から聞いた話。

 生活する障害者の支援を組み立てていくという機能をもつHANDS世田谷。ここに産後や親の闘病による育児困難といったことで生まれる生活上の困難に対しての支援の相談が持ち込まれるようになったと。そのときに「ここは障害者の場だから」と断ることはできなかったと。それは自分たちが「ここではできません」と言われ続けた経験があるからだと。だからこそ、自分たちのところに来た人に自分たちが「ここではできません」と言うことはできなかったと。
 不便を解決していく支援というものは、工夫を重ねていくことで、全体の力を養っていくのではないか、などと思う。