リツエアクベバ

satomies’s diary

「こころ」や「思い」の限界

ngmkzさんからトラックバック

ベタに優しい支援者と、意志のある「届かないかもしれない手紙」の話//*note304

ちょびっと驚いたこと。「ベタに優しい人が多い気がする」という部分。高2高3と合わせて、娘は6つの現場で実習を経験したけれど、この「ベタに優しい人」には出会わなかったこと。本人に対しての「現場実習」という研修の場であって、支援ではなかったからだろうか。いや、実習に対してのアプローチも支援だよな、とかなんとか。
今までの経験の中で、支援していただくときにこの「ベタに優しい人」ってのは、ボランティアさんに多いのかと思ってた。夏季余暇支援事業に特に多かったなという感覚。新任教員の研修として参加している「小学校の先生」も入っていて、「ベタに優しい」に対してこちらも経験支援的感覚で「ベタに優しい」があったなと思う。そうなるのは要するに、相互に「時間が限られている」からだと思う。
外国人を対象とする日本語教師をやっていたときに。研修のときから「こういうことだったのか」と思ったのは、自分にとって実に当たり前になっていることの数々を、構造やら意味やらなんやらと解明していく知識が膨大に必要だったこと。自分にはとっくに当たり前になっていることをバラバラにブロックにし、それを組み立て直し、そしてそれを学ぼうとする人と向かい合う。そうでなければ相手がわからないポイントがわからない。
時々思う。この経験は知的障害をもつ娘を育てるのに、かなり有効に動いていると思うこと。実際、発達心理学を学んだときに同様の感覚があったと思う。
「こころ」や「思い」だけでは限界がある。ではどうする?という作業に結局立ち戻るしか方法が無いことはたくさんある。自分にとっては当たり前になっている場面場面をバラバラにブロックにして組み立て直し、それが同様に動かない人を理解しようとするより方法は無いと思う。理解が届かなければ、またバラバラにブロックにしてみるだけだとも思う。
自閉症の疑似体験のプロジェクトを行うグループが、少しずつ増えている。興味深い取り組みだと思う。親が関わっていることも多く、すぐ近くの友人も関わっていて「ほう」と思ったこともあった。ああいう「親」の活動もおもしろいと思う。
すぐには結果が出ない時間の長さに途方にくれながら、そんなことをこつこつと繰り返していると、ある日ぽろっと結果が出てることがある。ああこれは結果なんだなあと手に取りながら、でもそこまでには数年が経過していたり。知的障害というものに対して、そんな印象がある。その種を蒔いた人はすでに遠く過去の人になっていることも多く、過去に向かって感謝しつつ、でもその種と結果の関係をわかる立場にいるのが「保護者」の醍醐味?
ngmkzさんのエントリを読んでから、いろんなワードを組み合わせて検索をかけたりした。「知的障害」とか「支援」とか「アプローチ」とかっていうワードに「科学的」って言葉を添えたりしながら。
いろんなものが出てきたりするのをばっさばっさと漁りながら、おお収穫収穫と思ったのがココ。

国立のぞみの園:ニュースレター013号

支援者に対しての支援として、研修という支援もあると思う。「こころ」や「思い」だけじゃ限界あるよなと思う。
それとちょこっとぼそっと。「ベタで優しい」アプローチってのをいかにもって感じで出す人ってのはキャラ的要素も背景にあるように思うこと。ステレオタイプなものの見方で言えば、生命保険の営業のオバチャン的? で、ngmkzさんってのはこんな感じの印象要素が薄いキャラという記憶。そういうキャラ的要素は「ベタに優しい」に対して疑問をもつという方向にもつながってるんじゃないかとも思った。いい意味で、「ベタに優しい」に逃げるのがあまりうまくなさそう。ゴメン、一言余計だったかも。