リツエアクベバ

satomies’s diary

まずごめんなさいって、それからだよ

書いて置けよ、わかるように/北沢かえるの働けば自由になる日記
とある公園へ遠征して、遊具で遊んでいた3歳の娘を、10歳ぐらいの子がキックして泣かせた。
知らん振りしているんで、「コラァ、なにするんじゃい」と追いかけていって、怒ったら、障害者なんです。わからないんです。怒らないでください」と女の人が割って入ってきた。
「わからないからって……蹴られて、娘は泣いているんだよ」
「障害者なんですよ、わからないんですよ。障害者なんですよ」

 …。もう何をかいわんや、というヤツです。3歳の女の子を10歳くらいの子がキックって、誰だって怒ります。とっつかまえて怒ります。それはまったくもってとう〜〜〜〜〜〜〜ぜんのことです。怒られるようなことをすれば怒られるのはまったくもって当たり前のことなわけです。
 そこで「ごめんなさい、すみません」等の謝罪の言葉があるのは当然のことです。障害ってことを言いたいなら、その後ですよね。その行為ってことの要因なんて相手が聞く態勢になるのは、謝罪の後ですよ、もちろんのこと。 

「それを言うなら、親の管理責任を懇切丁寧に説明してやるべきだったな。
 公園は公共の場所。危ないことをする可能性は障害児だけじゃないですよ。
 子どもの危険な行為を防止するのは、連れてきた親の役目でしょ。
 あなたは、自分の子を放っておいて、なにしていたんですか?
 障害者でなくても、それはおかしいんじゃないですか。
 ってぐらい、頭働かせなきゃ。感情的過ぎ」

 ご主人に拍手。拍手はしますが。でもちょこっと言いたいのは、ニョーボに「感情的過ぎ」って言えるのは、その場にいなかったから聞いた話だからってことはないですか、と。
 と、いうくらい怒って当然のことだし、そこで障害障害と印籠振り回すように言われたら、びっくりして頭に血が上りますって。そのくらいおかしいですよ。刺激的な言葉を吐いた、というよりは吐かされた、ってことだと思います。差別という言葉を使うならば、差別者にさせられた被害者です。
 知的障害児の他傷行動は、管理者責任です。残念ながらというか悲しいことにというか、なかなか解決しない子どもはいます。言っても言っても言ってもわかんないんだよ、なんて悲しみみたいなものがある場合もあります。それはその子の教育ということ。今日初めて出会った人には関係の無いこととも言えるわけです。その子の障害のもつ事情、教育の困難さ、そういったことに理解を求めたいのなら、まず謝るべきです。今日起きるその他傷行動は、その行動傾向がわかっているならば、その場の管理者責任です。
 つまり、他傷行動によって誰かが被害を受けた場合、それはその場の管理者責任で、その管理者が謝罪すべきことなわけです。その子は「わからない」ってことでも、その場の管理者は「わかっている」はずなわけですから。このお話のその場の管理者とはつまりは母親。あなたは知ってたはずでしょう?と。そこに知らん顔するんなら、じゃ自衛するから書いておけよ、と。そう言わせてるのはこの母親、ですよね。せっせせっせとこの母親の言う「差別者」を自分が生産してどうするんだ、ってことなわけです。自分が使う「障害者」という言葉は相手の口をふさぐ理由で、相手が使う「障害者」という言葉が差別だなんていうのは、ひどく勝手な言い分です。
 謝り続けているだろう、ということはある。でもそれを配慮されて許されて、っていうのは、謝罪すべきことを当然謝罪して、その後のことなわけです。差別だなんだとふんぞりかえっていては、誰だって許しちゃくれないですよ。
 もしも同じようなことがあって、親が誠意をもって謝ったのなら、そのときは許してやって欲しい。がんばってる人間には、そうか、と言ってやってください。お願いします。
 自分の人間関係ってヤツに、謝り疲れてたママってのがいて。きつい、という話は聞く。そうか、と言う。そしてわたしがやるべきことは、もういいよ謝らなくて障害児なんだからさ、なんてことではけっしてけっして無い。わたしが選択したことは、いっしょに謝ることでした。
 謝るのがつらいって人は、仲間を作ろうよ、と。ひとりにはしないから、って言ってくれる場が障害に応じてきっとあるはずです。