リツエアクベバ

satomies’s diary

ひとりをちょっと見ただけじゃわからないと思う

その老人が、障害を持つ少年に席をゆずらなかった理由/Not Found
昔、僕が都電を利用していた頃の話。僕が都電に乗っていると1人の知的障害者らしき小学生が乗ってきた。そして、優先座席のところへすたすたと行き、「座らせてください!」と大声を発した。そこにはおじいちゃんが座っており、少し驚いた様子で、「え?」と少年に聞き返した。少年は「座らせてください」と復唱した。そして、間髪いれずに「障害者なので座らせてください!」と繰り返した。

 この話を読んで、そしてその後に続く文章を読んで。ふうんそうなるのかあ、と思った。そしていわゆる知的障害児の親ってのを15年やってきて、自分の観点ってのも一般と変わったのかもしれないとも思った。いわゆる一般ってのがどういうものかもよくわからないけれど。
 この話、まず思うのは、この「障害者なので座らせてください」という言葉が出る理由、なぜか、ということ。誰が言ったのかどんな理由で言ったのか、ということ。
 考えられるケースでは、親が言ったことでそれなりの理由があること。つまりこの子は電車の中で座っていれば情動行動を起こしにくい、電車の中で起きる突発的なことにもパニックを起こしにくく対処しやすいというところがあるということなのか、と。通常はおとなしく電車に乗っていられるけど、こだわり行動の中で苦手なことに突然出くわしたときの弱さ、なんてものは一見では判断はつきにくい。ましてそうしたタイプの知的障害児を知らない人にとっては尚更だと思う。
 その上で。もしかしたらこの子の親が本人の前で、「詰めていただきたい」ときに「すみません、座らせてください」と声をかけるときに、「障害者なので」と言ったかもしれないとも思うということ。それを学習したのかもしれないということ。
 人を立たせてまで座るのか、なんてことがあるとも思う。ただ、この言葉この表現がこの子に入るときに、その「人を立たせてまで」ということまで教えられたのかどうか、実は定かではないということ。言葉というコミュニケーションツールが、スイッチのように入っている子も知的障害のタイプの中には存在するということ。
 そして別パターンで。この子が電車に乗っている経験の中で、席を譲られた経験があるのか無いのか。そのときにその譲った人が本人にもしくはその連れに「障害者だから座っていい」という言葉を発したということは無かったのか、とか。記憶ということでびっくりするほどそういう一言を覚えてしまう子というものも、障害のタイプによってはあるわけで。その一言の意味というものを理解していなくても。そして「障害者だから」という言葉をスイッチとして入れてしまっている可能性なんてものがあるのか無いのかとか。
 とまあいろいろ考えられるわけです。この子の場合、「知的障害があるという理由で人を立たせてまで座ることはできないのだ」ということを、電車の中という社会の中で一人の高齢者の方に教えられた、と。すみませんありがとうございました、ってことだと思うし、そういう光景という解釈にはならないんだろうか、と。ほら言われた、そういう図々しいことを障害を理由にしようとするからだ、と、そっちの方をやはり人は選ぶのか、と思ったり。
 障害者というカードを優先だなんて印籠にしているんだろうと。そうとられやすいということもあるのかもしれない。不便は見えにくい、優先は見えやすい、ということなのかもしれない。
 印籠にしようというか。娘の場合は幼児期に足に補装具をつけていて。そしてその補装具をはずしたばかりの頃は、足はまだ疲れやすく、電車の中ではできれば座らせてやりたかった。小さな体の分、少しつめてもらいながら、図々しいと思われないかと思いつつ、かがんで足をマッサージなどしてやった動作は、障害に対して説明的な行動だったのかそう見えたのかもしれないとか。なんでそんな状態で電車に乗るのか、それは病院に行くためだったんですけどね。そんなことは胸に書いて歩くわけでもないので、誰かにそう思われてもまあ仕方のないことなわけで。
 実際ねえ、知的障害児を育てていく中で出会った仲間たちの中で、「障害者だから座らせてくださいって言って、座っちゃいなさいよ」的な言葉ってのが出てくる会話ってのを、わたし自身は聞いたことは無い。それよりこのパターンだったら、小学生の一人行動になるわけで。はっきり言ってそんな図々しいちゃっかりなんて感覚を刷り込むよりも、多分心配山積み。なんかあったらごめんなさい叱ってやってくださいすみませんすみません、なんて方が大多数だと思う。
 申し訳ないが評論は簡単。見かけたたった一人で全体に対してのの断定なんてことも簡単。でもその一人だけじゃなくもっとたくさんいるんだよね、知的障害児ってのは。みんな生きてるんだよね、いろんなこと積み重ねながら。すみませんすみません理解していただけますかありがとうございます、なんて中でさ。

電車の中で思ったこと/妖精が見える子供

 ビッグママ、がんばってますね〜。電車に乗せる経験ってホント大事だと思う。わたしは折に触れ「電車に乗せよう」って言う。これは本人には自動車の運転免許が取れないことはわかっているからで、漫然と自動車に乗せ続けていては、連れて行かれる経験ばかりの子になってしまうこと。公共の交通機関ってのは「連れていかれる」ではなく「いっしょに行く」という経験を積むことができるもの。そして社会経験としても重要。この理由と共にわたしも先輩ママという人たちから「公共の交通機関に乗せる機会を」と言われてきたから、そしてわたしも言い続けると思う。
 うちの娘は電車は特に問題は無かったけれど、地下鉄が苦手だった。暗い中をごうごうと音を立てて走る乗り物という解釈のようで、恐怖に顔がひきつり体はふるえが出るような状態だった。抱きしめ落ち着かせ、だいじょうぶ怖くないだいじょうぶ怖くない、そう言いながらやっとのことで一駅をこなす。恐怖に震える娘を抱きしめながら、なんてひどいことをしているのかわたしはとも思った。でも一生地下鉄を避けて生きるよりは、経験と慣れでどこまで行けるのか、この子の可能性を信じて挑戦をしたかった。人目は気になったけれど、いや気にしてるなんてことで未来の制限をするわけにはいかないという思いの方が強かった。今は全然平気、あれは誰のことだったのか、という感じ。
 障害のタイプによってはハードルは高いかもしれない、一人はずっとできない子もいるかもしれない、冷ややかな視線に逢うこともあるかもしれない。でも生きてるんだからさ、やっていこうよ、という主旨は大きい。「障害者だから」なんてことを優先カードとして振りかざすなんてこと考えてる余裕なんて、普通は無いと思うんだけどな。
 たった一人の、偶然居合わせた光景のたった一例だけで、まあがんばってる人も同じくくりの中に入れられちまって「知的障害児はうんぬん」という総論に担ぎ出されるのは、やっぱり迷惑、かな。