リツエアクベバ

satomies’s diary

絶対まとまらないと思うこと

 う〜〜〜〜〜ん、と考えつつ、絶対まとまらないと思うのでもう感情という部分で記載。
 なんか悲しくなっちゃってさ〜。
 なにが悲しいかって、ってのはね。わからないんだろうなあ、って思うこと。そうだよなあ、専門家ってヤツでも(わからないんだろうなあ)って思うもんなあ、って。

まずごめんなさいって、それからだよ/S嬢はてな

 いや、とにかく社会ってののコミュニケーションよ、と。だってそれ欠いたらまとまるものもまとまらなくなってくるんだもの。だからって、いやとにかくあやまっとけよ、ってことでもないんだな。

たとえば/sala_3の日記
1、2歳の第一子で他の子のものを取り上げてしまう、あるいはたたいてしまうという行動に悩んでいる母からよく「男の子だからしょうがない」という声を聞くのだ。私は娘だけということもあるが同じようなことで悩んだ経験はない。なので、「そうだよね男の子だからしょうがないよ。いいじゃん適当にあやまっとけば」とは、言えないのだ残念ながら。

 男の子だからしょうがないよね、ってのは、もうテキトーにちゃちゃっと、ってことではないんだと思う。でもそういう風に、それがわかる人には言っちゃいたいってとこはあると思う。女の子の親には理解しにくいと思う。だから男の子の親同士でこそこそっと、言ってしまいたい言い方なんてのはあると思う。
 それは言葉通りの「しょうがない」でもないんだよね、と思う。一生懸命やって、それで「しょうがないよねえ」って、いわばガス抜きみたいな感じは、わたしも経験ある。うちはおとなしめの男の子だったんだけどね、それでもある。「男の子だからしょうがない」って言葉に救われるような思いをしたことも、ある。
 たたくとかじゃなくてもさ、痛いんだもの男の子って。ママ〜って走ってきたときにどんってくる。力が違う。4歳5歳くらいだったら、走ってこられたら受け身態勢で構える感じ。おともだちってヤツに誘いかけるときのとんとん、って動作だって、たたいてるって思われかねない動きって、男の子にはある。あと男の子の幼児期って、なんつ〜か、むやみに動くしね。ばたばたばたばたばたばたばたって。思った途端の行動ってのが早い子も多い。
 男、男、なんてパターンの家は、もうこの辺の感覚たくましくなってる。次男三男ってのはたいがいパワフルだしね。ええいしょうがないわい、なんてとこもあると思う。
 女の子の親にはわからない、ってことはわかってて欲しいとは思う。でもこれさえも女の子の親には難しい、って感覚はあるんだよね。
 女、女、ときて、三番目に男の子、ってパターンの場合、こそっと聞いてみたくなる欲ってのがある、(女の子とちがうでしょ)って。ちがうねえええ、って答えが返ってくることは多い、わたしの経験では。なんかや〜っとわかってもらえた、って気がする、こういうとき。
 だからさ、必要。一生懸命やって、それで「しょうがないよねえ」って、いわばガス抜き。
 でもって、その延長上のように思うコレ。

障害を持つ人が暮らしやすい世の中のために/空が晴れたら
女の子がキックされた件で私が一番ショックだったのは、障害を持っている子の母親が「分からないんです」と言ってしまっているところだ。キックされた子の親がつい感情的になって暴言めいた発言をしてしまうところも、障害当事者の身近にいた自分にとってはキツく感じるけれど、謝罪されなかったのではカッとなってしまうこともあるだろう。それよりも「分からない」、この言葉のほうが重く感じた。

書いて置けよ、わかるように/北沢かえるの働けば自由になる日記追記部
だが、「障害者なんだから、わからないのが当然でしょ」って言葉と態度に、カーッと来たことは反省しないな。
なんだろ。情けないよっていうか、悔しくて、怒りが沸騰したっていうのは、単に娘がやられただけの怒りじゃない。
「自分の子なのに、『わからない』って決め付けるなよ」って気持ちもあったな。

 正しい、正しい、正しい。
 でも、悲しい。
 わたしは、この「差別だ」と連呼した親が、わからないと決めつけて放置している、とは思わなかったんだな。だってそんなこと、わからないもの。そのときにすぐに教育的処置ってことにならなかったからって、わからないもの。
 悲しいのは、わからないんだなあ、って思うから。
 すっごい長いもの、何かを教えて、それが形として見えてくる日って。ひとつのことに数年、5年や10年かかるものだってある。そのことに向かい合っていくのって、怠けたりいつも一生懸命じゃなかったり、そういうことが実は大事で、そうじゃなかったらやってけないとこって、あるもの。「長くはかかりますが」って言葉の、その「長く」の毎日毎日毎日毎日、ってことの感覚が、多分わからないんだろうと思った。その毎日毎日毎日毎日、って、やってないよね、って。だからわからないんだろうな、って。
 わたしは。15年経った。やっと見えてきた、ってこと、ある。さなかにはわからなかったことって、いっぱいある。
 娘の下に息子が生まれて。まあ障害ってものはなかった、と。でもって、言葉の遅れってものがある子どもで検診時に指導なんてものがついてくるような状態だったんだけど。それでも慌ただしくって慌ただしくって、だって、子どもの発達の早さについていけない。知的障害の無い子どもの発達って、こんなにも早いものかと思った。アクションで返るリアクションが、早い。とてつもなく早いと思った。リアクションが早いってのは、アクションを支える。母子相互作用ってヤツ。ここが弱いんだよね、知的障害児の子育て。
 まずごめんなさいって、それからだよ、この文章でリンクした引用文の「障害者なんですよ、わからないんですよ。障害者なんですよ」って言葉。これは逆にわたしは、ああ頑張ってきたんだろうな、とも思った。叱ったり教えたりなだめたりすかしたり、なんてことしてきたんだろうな、と思った。それがさ、賽の河原のように思うときってあるんだよねあるんだと思う。そこで思うんだよね、障害なのか、これが障害ってことなのか、って。
 そうやって、もしかしたら停滞期なのかもしれない。またこつこつと教えていこうと思うのかもしれない、とも思うんだよね。たった一度、目の前でわかりやすく教育しようとしなかったからって、あきらめてるなんて思わないで欲しい。停滞期ってあるもの。
 小さい子の親と話すとき、わたし、一生懸命やれって言わないもの。できるときにできることを、って言う。つらくならないような、早めに積むテクとか、そういうこと。今ここ頑張ってるならここはサボっちゃおうとか、そういうこと。
 専門家はこうしてください、って言う。わたしが言うのは、ああそれは時間がたってしまえば、そう長く続くことではないって思える。だからそう長く続くことではない、って言われることもあると思う。でもね、そのさなかの毎日って、長いんだよね、って。
 くっそ〜、長いんだよ。それをさ、しょうがないよね、ってどこかマヒさせてそれで明日を信じる力ってのを、保とうとすることだってあるんだよね。
 だから停滞期に入る人って、責められない。仕事で関わる人には、この停滞期の感覚ってのは、やっぱりわからないと思う。だって、ず〜〜っと続くんだもの、その結果ってのがいつ見えてくるか、ここです、みたいなとこ、わかんないんだもの。明日を信じる力が弱くなるときって、ある。
 知的障害児の子育てってヤツ。わたしが聞いた限りじゃ、どんなに一生懸命やってる親でもみんな言う。「自分が親じゃなかったら、もっとこの子は伸びていたのかもしれないって、そう思ったこと、ある」って。大なり小なり、停滞期ってものを誰でも持ってるんだと思う。
 停滞期にばっかり入ってもいられない。だからさ、そういうつらさ持たずに関わってくれる人、増やして行く方がいいと思う。だから、社会ってののコミュニケーションでダメってことは、やっちゃいかんよね。もっともっと、わかってもらえなくなるもの。