リツエアクベバ

satomies’s diary

昨日のこと

 ちょこっと所用で近所に外出、娘と息子連れて。ってとこでダウン症の子と出くわす。ああこの子、数年前にママと一度電話でお話しした。こんなに大きくなったんだな、にこにこ。
 ってその子が甘える兄。兄? 兄?ってアンタだったの?あらま、知らなかった。この兄、息子の同級生。うちにも遊びに来たことアリ。ああそうだそうだ、学年同じで一年生のときに同じクラスだったんだった。あとそういや去年同じクラスだったっけ。あっちとこっちを結びつけるなんてこと、すっかり忘れてた。うちとここんちと、徒歩では30分くらいある距離でなかなか接点も無かったしね。
 このダウン症の子、学区の学校の障害児学級には進まなかった。娘の行った養護学校とは別の養護学校。近所でもないし、ってことでうちの息子とは全然接点無し。
 アンタ知ってた?○○君の弟クンがダウン症だって。なんぞと聞くと、見りゃわかるよそれに○○から聞いたし。
 聞いたし、聞いたし、聞いたし。ほう、アンタたちはそんな大人っぽい会話なんぞしてるのか。ほう、と思った。
 ふうん、それはいつ頃? そんなにすごく前じゃないけっこう最近。どんな風に聞いたの? …言いたくない。そか、それならいいや。へー、いやしかし、なんかおかあさんは安心というかなんというかほっとした。なんで? いやアンタとわたしは「親」と「きょうだい」と立場が違う、きょうだいの気持ちってのはやっぱきょうだいの気持ちってものがあると思う。だから早くからアンタが自分と同じようなきょうだいってのがいるんだって知って欲しいとこもあったよ、だから△△クンとか××ちゃんとかってのがアンタの周りにはいるじゃない? でもさ、そうやってダウン症のきょうだいってとこ前提で知り合うってより、友達だぜってとこであら共通項あったねって方が、なんつ〜か自然じゃないか。家が遠いからそんなに接点無かったけど、あの子とアンタはどうやら気が合う感じだし、これからアンタたちが大きくなってくときに、(あのさ…)なんてのが言いやすい、しかも元々のお友達ってのがいるってのは、そりゃ強いよ精神的にさ。でもって、もうすぐ中学生だ。アンタはみ〜んなちぃちゃんのこと知ってるってとこで育ってるけど、中学になったら他の小学校から来る子はちぃちゃんのこと知らないからね。アンタがどんなこと思ったりするんだろとか、ちょっとおかあさんドキドキってとこあるけど、○○君がアンタの友達で同じ中学で、ってとこで、なんかおかあさん、ちょびっとほっとした。
 うんうん聞きながら、「ねえ」と言う息子。なに?と聞くと「ダウン症って千人に一人生まれるじゃない?それって多いよね」と。
 はっはっは、なんだこりゃこの質問は、と思う。千人に一人なんつ〜まあありきたりの説明ってのは、わたしもそりゃ言ったことはあるようにも思うが、こんな風にもっともらしく出てくるってことは、これは要はこの6年生の男の子二人のきょうだい談話の中にこのフレーズが出てきたのかもしれないな、などと思う。
 ダウン症の子どもとやたらに関わる生活ってのがある自分には、即答で「多いよ」ってのはある。あるけど、自分ちにやってくるまではこんなに多いって印象は無かったよな、と思う。だから千人に一人ってのが多いか少ないかなんて感覚は環境によるだろよ、と思う。思うけどそのままでは言わない。
 「少ないよ」。だって千人だよ、アンタの学年は全部で何人だ?120人くらいいるじゃないか、普通に考えて小学校一個でやっと千人いるかいないかだよ? ちぃちゃんが六年生のときはあの小学校で二人いたけど、それだってその年に入ってきた一年生だからね。ちぃちゃん一年生から五年生まで、あそこの小学校ではダウン症は一人だったよ? 少ないじゃん。
 なんぞと言ってから、言う。あのね千人に一人ってのを少ないと思うか多いと思うか、なんてことは、それは環境ってのが関係してくんだよ。アンタは絶対多いと思うと思うって。だってアンタ、生まれてすぐくらいからおかあさんに連れ回されて、ダウン症の赤ちゃんばっか見て育ってたとこあるんだから。おかあさんたちがやってるダウン症の子どものイベントだって、アンタたいがいのものは参加してきたじゃないか。知ってるダウン症の子の数なんて、普通のアンタの年齢の子どもには考えられないくらいの数のはずだもん。そりゃアンタは多いと思うさ、そういう環境なんだから。
 な〜んてことを話しながら、この小さい男の子二人が自分たちのきょうだいについて話したりなんかしたときに、「多いよ」なんてことを言ったりしたのか、とか思う。
 わたしは特にダウン症という言葉を使って教えるってことはしなかった。それは言葉だのなんだの以前に体験して自分でキャッチして自分なりに理解してって、そういう時期も成長の中で大事なんじゃないかと思ったから。ちぃちゃんはちぃちゃんだよ、と、ダウン症という言葉よりも、まずそっちって時期ってのがあると思ってたから。聞かれたら答えはするけど、ちゃんとダウン症って言葉を使って説明したのは、いっしょにドラマ「たったひとつのたからもの」を見たときに。あれは母が体験したことを説明するのには、かなり充分な材料になったってとこもあると思う。母の体験をドラマになぞって語るときに、ダウン症という言葉は必要不可欠だったし、そろそろそうやって説明されてもいいかなと思うちょうどいい年齢であのドラマってタイミングもあったと思う。それが友達と、ダウン症って言葉を使ってきょうだいを語るような年齢になったんだなあ、などと思う、感慨。
 多いよ。でもって、そのきょうだい児ってのは実はもっと多いんだと思うよ。実はもっと多いはずなのにちょうどいいとこでちょうどいい偶然で出会えない子どもってのもいっぱいいると思う。うんうんうん、コイツってば運がいい。
 しかし聞きたかったな、二人の6年生の男の子のきょうだい談義。