リツエアクベバ

satomies’s diary

疲れた…

 夫は今週いっぱい欠勤。葬儀終了後もまだまだやることはたくさん。近所への挨拶回り、国民年金国民健康保険等事務処理上の手続き、香典の記録。人が1人、その生の存在が消えるということは事務処理上だけでも大変。併行して49日の準備もゆっくりと開始。3月4日に納骨が決まる。
 死に向かい合う「喪の作業」、葬儀等一連の儀式は生きている人間を生かすためのものかもしれない。陰膳を備えるために食事の準備をするということも、結局は生きている人間の食につながっていく。
 なんだかんだとぼーっとしているヒマもない。その中で、義妹二人と虚脱感なんぞをぽつぽつと話し合う。ああもう二月なんだねと言いながらカレンダーをめくる。一月のカレンダーを見ながら、一月が始まったときにはその月の終わりにこんな展開になっているなんて夢にも思わなかったと言葉を交わし合う。なんせ「悪い」という、これからの展開として「あくまでも可能性」の話を聞いたのが、20日だったんだから。わたしがこのときに覚悟を決めたのは「年内」だったんだから、「月内」なんかじゃなかったんだから。
 20日からのシーンの一コマ一コマが妙にばらばらに脳裏をよぎる。ひとつひとつのシーンが強烈だと思いつつも、やがてその記憶が薄れていってしまう日が来ることを考えると、きつい思いをしながらも、その脳裏によぎるひとつひとつのシーンをそのままに回想する時間がただ流れる。
 「親を送る」という作業、あと3回もしなきゃいけないのかと思うとため息が出る。今まで聞いていた知人・友人の「親を送った」という話や、喪中の年賀欠礼のハガキなんぞを思い出す、そうかこういうことだったのかなんて思いながら。こういう経験を積んでいくということが「大人になる」ということかもしれないと、自分が今まで半人前だったことを思い知る。