リツエアクベバ

satomies’s diary

今日は中学で卒業式

式が終わって生徒退場のとき、退場していく生徒たちがぼろ泣き。男の子がやたらに多いこの学年。その男の子たちがものの見事にぼろ泣きだった。やんちゃな子とか見ながら、(この子がこんなに泣いた顔って初めて見た)とか思ってた。
拍手しながら退場を見守る保護者席も、鼻すすり声があちこちから。要は、ものすごくいい卒業式だったってこと。
圧巻だったのは、卒業生の「門出の言葉」。進行役の生徒が語り、それに加えて行事ごとに中心になった生徒が自分たちの今までを話していく。
その行事ごとの話のときに。合唱祭のところであの子が出てきた、ブログを見つけたあの子。流れる涙のままに語っていく。ここでもう、卒業生たちはやられちゃったのだと思う。この子が話しながら「学年全員で歌ったあの歌の思い出」ときて、さあその大合唱をもう一度、って大合唱が始まったのだから、そりゃもう盛り上がらなくてどうなるって感じだった。
200人以上の生徒たちによる大合唱。自分の席からそのまま立って「さあ歌います」って感じじゃなくて、中央の指揮者の位置から扇型に並んで全員がこっちを向いて、パートごとの立ち位置に分かれて並ぶ、まさに大合唱だった。卒業証書授与の時に、立ち上がった席と戻る席が違ったのはこういうことだったのか、というからくり。
一曲歌ってから、中三の学年の担任教師陣の方にがさっと全員で向いて、指揮者の子が代表で先生たちにお礼の言葉。先生たち皆ぼろ泣き。そしてまた、がさっと全員で向き直って、別れの歌を歌う。歌のクライマックスの盛り上がりがすごかった。今、別れのとき、旅立とう。歌の迫力にこの子たち一人一人の心を思う。保護者席ももうぐちゃぐちゃ。
生徒たちが退場。「今、あの子たちは最後の学活を教室で行っています。出てくるのをお待ちいただき、その後は思う存分写真撮影をしてください」とのお話。
学活を終えて生徒たちを引き連れて、うっれしそうに大はしゃぎで出てきた坊やの担任。入場のときに会場をどよめかせた「羽織袴」姿、よく似合ってたよ。行事の度に子どもたちよりもはしゃぎまくるいつもの姿、そのまま。式のときの「お礼の言葉」で膝に顔を埋めて泣いていたのは誰だっけ?という感じのハイテンション。これが、これが、これがいつものあの熱血だ。がんがんとストレートに生徒たちに接していった。そのことをこの子たちは誰よりもよく知っているんだろう。
担任陣はぼろ泣きの今日だったけれど。受付で保護者それぞれに渡された封筒。差出人には自分の子どもの名前。卒業を機に子どもたちが書く「手紙」。式の前に読んで泣けってことだったけれど、文字通りこれにも泣かされた。文章を書くのが苦手なウチの坊や。わたしが知る限り、あの子がここまで長い文章を書いたのは初めてだ。
前日に学年主任から渡された、一人一人を見つめた個人宛のメッセージ入りのお手紙。全員共通の欄のところにはこんな文章があった。
「君たちに出していた毎月の手紙にいつも載せていた自分の連絡先は、今回は全て削除する。これまでのように何かあったら連絡することはかまわないが、それでも知っておいて欲しいことは。自分は自分たちはもう君たちの先生ではないこと。自分は自分たちは、君たちの『元』先生であること。もう、しばらくは簡単にはこの中学に来てはいけない。新しい日々には新しい先生と新しい生活が待っている。そこに向かっていきなさい。3年前に自分たちが君たちに出会ったようにね」。
昨日の娘の卒業式の後にも、娘の教室で学級担任の主任が言った「明日からはこの学校には来てはいけません」。別れの時に、いつまでも自分が生徒たちのいい先生であろうとすることは、それは生徒たちのためになることではない。新しい生活に向かって背中を押していくこと。これもいい先生のもつ教育のひとつであると。それを強く押し出していこうとする教員たちに、生徒たちへの愛情を感じるなあと思う。過去の人間になろうとすること。それも「卒業」のひとつなんだろう。
泣きまくって泣きまくって、そして明日へとまた歩んでいく。卒業だ。