リツエアクベバ

satomies’s diary

仰げば尊し

 昨日のエントリ、「卒業式終了」と、そのコメント欄からの発展。
 「仰げば尊し」という歌に胸きゅんって思う世代はどこまでなんだろう。卒業を前にしてこの曲を習って。その歌詞の中の言葉に卒業までのいろんなこと思い出して、「今こそわかれめ」とか「いざさらば」という言葉に、はっきりと卒業を思ったなあと。卒業式練習で卒業をしみじみかみしめるような感覚があったように思う。
 教師への敬意を強要ってことだったと思うのだけど、もっと違う理由があったんだっけ。正確なとこはどうなんだろう。
 ってとこでこんなブログを発見。

卒業式の季節/60の手習い

 これを読みながら、「仰げば尊し」をやめていったときの教員の方はどんな思いだったのだろうと思った。教育批判というものはあるかもしれないけれど、教師という言葉にふさわしいような努力を重ねている方も、たくさんいらっしゃるとも思う。自分自身にも師はいるし、子どもがお世話になった方を思えば、努力を重ねていなければできない授業研や教材研究もあったなあと思う。道をはずす方をもって他の方を否定するのはもったいないようにも思う。
 自分が「仰げば尊し」を歌って卒業していったときは。「わが師の恩」ってとこでは、型どおりの敬意ではなく、実際の教師との関わりのビジョンを思い出すような気がした。敬意ってことではなく、あんなこともこんなこともあったみたいな。思い出ってそういうことだよな、と思う。「たがいにむつみし」ってのは、同様に同級生との思い出を反芻する。
 ここで「恩」ってのは、強要される敬意というよりは、そうだよなあ、ありがたかったことあったよなあと、「恩」という言葉で引き出される思い出で、そしてその思い出の中の感謝を見つけるという感じだった、わたしは。
 自分の年齢が上がって、あのときのあの先生のアレはあのときはこう思ったけど、それやっぱあははだよなあ、なんてことを見つけることもある。それでも学ぶときに出会う大人として、いろいろなシーンから学ばせられたことを見つけることもある。
 「思えばいととしこの年月」は、「思えばいと疾しこの年月」。「いと」非常に「疾し」速い、ってことで「思い出せばあっという間だったぜ卒業までさ〜」ってことで、ホントだよなと思う。ここだけではなくこの歌には各所に日本語の古い表現が出てくるのだけれど。こうした日本の古い表現が思い出に沿う機会が無くなるのって、もったいないと思う。古典の時間がどうのってことより、日本文化を肌で感じるいい機会なのにね。
 娘の小学校卒業時の卒業式、そして今回の娘の養護学校中学部の卒業式と息子の卒業式。わたしが出席したこの3回において、歌われた歌はみんな未来への希望を歌った歌だった。それはそれでいいのだけれど、卒業式という機会に卒業までのことを歌で思い出す機会ってのもけっこう大切なんじゃないかとも思う。全員で思い出を振り返る「呼びかけ」はやるけれど、音楽にのせて得る思い出への反芻は音楽と共に残るってことも大事だと思う。