リツエアクベバ

satomies’s diary

母性愛やら、そこに潜む罠やら

母親というものと、子どもというもの

 子どもを生んで、自分が母親という立場になってみて、ああと思ったこと、わかったこと、実感したこと、そうだったのかと思ったこと。
 その最大は「母親の愛は無償であるなんてのは、誰かが作った幻想だ」ということ。母親という立場の人間が自分の子どもに対してもつ感情や愛情というものは、他の感情と同様にその人間から生まれるもので、普遍的なものではないこと。
 重要なのは、母親ではなく、子ども。世話無くしては生きられない、不完全な状態で生まれる人間の赤ん坊というもの。このイキモノが求めてくる愛情というもの。求めてくるエネルギーのすごさ。
 赤ん坊は赤ん坊のときから、そりゃもう必死だ。母親に捨てられたらその生自体が危ぶまれるのだから。食や排泄だけでなく、その生の維持や安全全てが母親の手に握られている。そして何よりすごいのは、無条件に愛情を求めてくること。
 赤ん坊は母親を微塵たりとも疑わない。無条件に愛情を求めてくる。この求めてくるエネルギーの影響力。もうこれに尽きるんじゃないかと思う。これを感じたときに、母親は大慌てで「無償」を学ぼうとする。子どもを育てるってのは、その繰り返しのような感じがする。
 怖いのは、この、子どもから発信される「母親絶対」に対しての母親側の麻痺。生の存在をかけているのだから、「母親絶対」は、生を維持する上で当たり前の事実ともいえるところがある。しかし、母親がその「母親絶対」を「自分絶対」と勘違いしたときに、子どもとの関係の中に「母親王国」を作ってしまう間違いを起こしていく。
 母親の愛情というものは、慈愛にあふれ、無償である、という母性愛信仰。それって誰が作った幻想で、誰のために存在し続ける幻想なのか、と思う。そしてその幻想は誰を苦しめ続けるのか、とか。

大日向雅美『母性愛神話の罠』
第2章 母性愛に寄せる人々の慕情

  • 母性愛を疑うことへの人々の抵抗
  • 母なるものに寄せる人々の郷愁
  • 母への郷愁をかきたてる文化的装置

「漬物蔵」に見る母親

コンテンポラリィ・ユニットG - Susibar - 『陥穽』をテーマとしたエントリ 『漬物蔵』
小学校4年の冬、漬物蔵の中で僕は一度、生きることをあきらめた。

 この文章の中に出てくる「母親」は、自分が理不尽なことをしていても、子どもは自分に従う、と思っている。もっと言えば、自分が理不尽なことをしても、子どもは自分を許す、と思っている。
 家長としての威厳を保つこと、そのためにしなければならないことは妻を操ること、という前提の夫からの暗黙の命令。アンタのしつけが悪いという刃をちらつかせる姑。出口の無い母親は、子どもに矛先を向ける。子どもは自分を受け入れるはずだから。
 この情景のようなことは、ありふれたこととは言えないかもしれない。でも日常の中で子どもが自分を許すという暗黙の前提の上での行動、なんてこと、些細なこととはいえ似たようなことはやっているのではないか、と思う。その環境条件をふくらませていったなら、と思うととても怖い。
 母親は子どもに対して常に「無償の愛」を与える存在じゃない。でも、子どもというものは、母親に対して、常にどこか許し続けようとする存在なんじゃないかと思う。それは、母親の愛情の存在というものが、子どもの生自体を握っているからだ。
 母性愛がどーたらこーたら、という「母性愛」という定説。それは真実じゃない。罠だ。この罠を知っているかどうか。それはとても重要なことなんじゃないかと思う。自分がその罠にいつか堕ちてしまわないために。