リツエアクベバ

satomies’s diary

ふうむ、と思ったこと

 ここんとこ、ずーっと考えていたこと。fuuuuuuunさんのブックマークから飛んだココについて。

愛されるには自己愛を満たす必要があり自己愛を満たすには愛される必要がある/出られないから仕方なくここにいるよ。

 この文章を読んで、考え込んでしまった。
 ここでリンクされている『自己愛をうまく活かす』という文章に関して、ふうむと思ってしまい、そして上記のエントリの文章にうなづくというかなんというか。
 『自己愛をうまく活かす』という文章では「自分が褒められたいように他人を褒め、気を遣ってほしいように気を遣ってあげてみてください。十人のうちひとりでも愛情を返してくれる人がいれば儲けもので、その積み重ねが自信につながります。」というのだけれど。ただここで思うのは、わたし自身がそのひとりになる自信が無いということ。
 人と出会って人間関係が始まろうというときに。たまにいらっしゃるんですが。なんか妙な笑顔で妙に褒めてくる方が。正直に言って非常に居心地が悪い。対面しているのに相手が見ているのはわたしではなく、わたしに写っている(と、相手が思っている)相手というかなんというか。関係としてそれは対等ではなく、そして相手の前にいるのはわたしという人間ではなく、という感じ。だいたい、返すといわれても、こういうアプローチで渡されるものは渡す相手に対しての愛情ではなく、自己の葛藤をそのままつきつけられるような感じがするものというか。だから愛情を「返す」ということ自体、そもそも違うのではないか、と思う。
 それと。その、妙な笑顔で褒めてくる方というのは。いわゆる便所友達を見つけようとしているだけの手段のように感じる場合もあるわけで。コイツを褒めとけばなんとなく便利そうってことかしら、と。それでもってそういうときの褒め言葉というのは、非常に返答に困るものが多い。
 ここでいう「十人のうちのひとり」というのは、褒められたから、気を遣ってもらったから、愛情を返すというのではないと思う。 ここでいう「十人のうちのひとり」は。褒められたから、気を遣われたから、人間関係が成立するのではなく、人間関係の構築の仕方が不得意であろうとなかろうと、そもそも個性というものの相性が、その得意不得意を越えたところに成立していた場合ということではないだろうかと思う。
 わたし自身は、人間関係の構築というものが、けして不得意とは言えないと思う。まあぶっちゃけあまり困難を感じたことはない。そしてわたし自身は、人間関係の構築が得意な人とばかりつきあうというわけでもない。不得意な相手に対して、こちらからうまく橋をかけていくということもやりたいときにはやる。だから得意不得意を越えて、相性というものはあると思う。それと、人間のもつ魅力というものは、人間関係の構築の得意不得意に全て左右されるということではないと思う。人間関係のつながりができていく相性の場合は、変な気の遣い方をしなくてもいいのだと相手を安心させようと気遣いを渡す場合というものもある。それが本来の「愛情を返す」ということなのではないかと思う。
 だから、「十人のうちのひとり」には伝わることがあります、と。それを信じて伝わらない9人に「自分が褒められたいように他人を褒め、気を遣ってほしいように気を遣ってあげてみてください。十人のうちひとりでも愛情を返してくれる人がいれば儲けもので、その積み重ねが自信につながります。」ってのは、どうにもすすめられないというかなんというか。それって、どうなんでしょうかね。
 どうなんでしょうかね、と思うけれど。でも、所詮オマエにはわからん、ってことになりそうで、出すのに勇気が無かった。でも出しておこうかな、と思った。