リツエアクベバ

satomies’s diary

はてブコメントにレス:きをふしファンサイト宣言

はてなブックマーク > S:今日の一言 - きをふしファンサイト宣言
「2006年03月03日 lsty 『[精神]「わかる?」→わかんねーよ→わかるように書けよ→わかるように書く→でも、わかるように書かれた文章は→はたして→「わかられて」いるのだろうか?』

 「わかるように書かれた」はずの文章が、読む人によって意味が変化していることも多いと思う。文字列の順番、語尾、展開。公開された文字列から、ひとつひとつの単語の意味以上に読みとられる情報は、はたして正確なのかどうか。その辺は難しいことがあるとも思う。
 「わかるように書かれた」ものがどんなものか、それはどういう定義になるんだろう、などと思う。
 正確、という言葉ひとつ取ったって、それは読み手の意図という「正解」に近いものか、それとも日本語の文字列が表す情報が「正解」に近いものか、という要素もあると思う。
 では、書き手の意図の「正解」と、日本語の文字列が表す情報の「正解」がずれてしまった場合、どちらを「正解」とするのだろうか。そんなことは個人の文章からはいつでも起こりうる。
 ただ、わかっていることは、新たに更新された とてもきをふし2006年03月03日(金)は、わたしにとってはとても大事に読まれたものであったこと。「わかってること」なんていうのは、実はそのくらいのことかもしれない。国語の教材にでもするんなら、一文、一段落ごとに解説なんぞなされるのだろうけどね。それをやれ、と、誰かにわたしが言われたなら、やってやれないことはないように思う。ただし、それはわたしの解釈という、また新しい世界の中での話で、それはまた、書き手の意図の「正解」と、日本語の文字列が表す情報の「正解」とは、またちがう、わたしが読んで自分の中に展開された世界の「正解」かもしれない。ただし、わたしにとってはきをふし以外の文字表現でそれをやっていくのは実にナンセンスな気がするのでやりたくない。
 文字列が記事と呼ばれて公開されていくときに、こういってるからこうだとか、こういってたはずなのにこうだとか、それは正しいとか正しくないとか、細かい部分、意図に対しての疑い等からみあって異論反論という域を超えていくものを、時々目にする。そうしたものを閲覧していると、なんだか大きな机上の論理ごっこに見えてくるときがある。そうした「難解」に比べれば、わたしにとってはきをふしは非常にわかりやすい。