gooにトラックバックいただいて、反応をはてなから。その理由は感想が「きゃ〜」だから。
きゃ〜なこと。わ〜いなこと。ワクワクなこと。カイパパさんと天竺堂さんとngmkzさんが話してる!
内容は「チャレンジド」の話。単にこの言葉がどうのってことよりも、このお三方がそれぞれの個性と思考を背景に会話してるってことが、わたしにはワクワク。リンク先読んだり天竺堂さんのコメント呼んだり。そしてまたこのエントリでさらに生まれてるngmkzさんのトラックバック送信エントリもすてきエントリ。
それとyas-toroさんに「ねえ!」って言いたくなること。人の話ぜっんぜん聞いてくれないこのコメント欄。ねえねえHUBだHUB。HUBって楽しいねえ、なんかトクしちゃった感じ。
カイパパ本、5個目アップ
ボリュームのあるインタビューで、実際の現場を想像する。ナマでこの対話を経験したカイパパさんは、経験としてすごく大きなものになっているのだろうなと思う。
人と人が出会っていくこと、渡していくこと渡されていくこと。そしてそれがまた熟成していくこと。そんなことを考えるととても楽しい。
↑のコメント欄から
コチラのコメント欄からの発展。「チャレンジド」という言葉に関しての自分の考えという話。
元記事で言っていたのはこんなこと。
どんな風にこの言葉を解説するか、とらえるか、ということをもってしても、がんばらなければならない人、という印象を持たせることに対してのマイナスの感覚を、わたしはこの言葉に感じるところがある。
(用語もろもろリンク集)
ここんとこ何度か出している以前の職の話、日本語教師ってのをやっていたというもの。このときに思ったこと、学んだこと。言葉というものは多数が決定していくものだということ。
たとえば配偶者をさす言葉。「ご主人」「主人」という言葉にどんな考えを持っていても、配偶者を指す言葉として一般化されているものならば、外国人に対しての日本語教育ではそう教える必要があるということ。外国語学習は文化を学ぶ要素というものが含まれていくということがその理由。教える相手の主観を学ぶものではない。「あなたのご主人」「わたしの主人」という教科書の例文に抵抗をもっていた人は多かったけれどね。でも日本語文化としてその使用例が多数ならば、という前提が言葉というものにはあるわけで。
その前提で「チャレンジド」という言葉を見ていくと。「チャレンジド」とカタカナ表記にしたときに、そこに日本語の感覚の要素が入っていくわけで。日本語の感覚の要素が入っていくときに、日本語の文法ではない「ド」に関して、その意味はその言葉の解釈からは自ずと薄れ、「チャレンジド」と聞いたときに「チャレンジ」という言葉の意味の方が強く入ると思う。
そして日本語で「チャレンジ」という言葉は、「がんばる」「がんばれ」という意味合いが入ると認識する人間が多数派を占めるのではないかと思うこと。
だから「チャレンジド」という言葉が生まれた背景やその意味合い、その言葉にどう思うかということをもってきても、言葉としての一人歩きから生まれてしまうものの方が、わたしは大きいんじゃないかなあ、と思うということ。
そして「挑戦」ということを言うならば。常に挑戦という姿勢をもっていくことが必要なのは、障害というものの周囲の人間であり、そこを認識させられた実感があるのは、’80年の「WHO国際障害分類試案」(ICIDH)の中の「社会的不利(handicap)」という概念だった。もたらされるチャレンジは周囲にあるという認識。
だから、障害をもつ人をさして「チャレンジド」とするのは、わたしにはしっくりこないと思う。それでもこの「チャレンジド」という言葉をどう考えるか、という話を聞くのは興味深い。また、三者の個性が出ていく会話になっていることも興味深く、邪魔せず見てるという選択を取ったという展開。
がんばること自体は悪くないよ、悪いのはがんばらせられることだと思う
霞先生からトラックバック受信。
がんばることは悪くないと思う。でもがんばるときに大事なことは、それをそのことをがんばろうって、自分で選んで決めることだと思う。
自分で選んで自分で決めてがんばろうってことだからこそ、がんばれることってあると思うし、自分で選んで自分で決めたことに対してがんばらなきゃいけないことってのもあると思う。
生涯教育ってのは楽しいと思う。楽しいと思っている人がたくさんいるからこそ、生涯教育ってものが存在しているんだと思う。それは学ぶことを自分で選んでいるからだと思う。
生涯教育という場のひとつである放送大学。わたしが育児環境をやりくりしつつ、発達心理学や福祉について学びたいと思ってここのスクーリングを受けていたとき。ほとんどの講師が言っていたこと。授業がしやすい、みんな真剣だ、出されるレポートも質が高い、と。欲しているのは他者からの評価じゃない、自らの満足感だからだと思う。生涯教育という需要があることが大事なんだと思う。
知的障害児に関しては。どうしても周囲の方が先に、がんばらなきゃいけないことを設定してしまうのだと思う。いや設定はいい、見通した課題の設定等、周囲の方が設定しやすいことはたくさんあるし、設定する支援というものもあると思う。
ただ、そこで。本人が選択する間をもたせているか。本人が選択するモチベーションを持たせているか。そのことが重要なのだと思う。周囲が設定したことであっても、本人が選択する場合、本人のモチベーションが確保される場合、がんばることは出てくる。そしてがんばったことに対しての達成感をもつことが、自己充足感につながっていくこともたくさんある。
「ありのまま」という言葉だけで成長の可能性を投げてしまうのは支援の怠惰だし、本人置き去りの課題の提示と強制は本人自身を育てない。何かができるようになることが大事なんじゃない、自分という存在を大事にできるかということが大事なんだと思う。何かに向かい合っていこうとすることは、自分自身を大事にするために進む道だと思う。
知的障害児に向かい合うときに、問われているのはこちらの知的能力。タイミングの研究、モチベーションの芽の養成や把握、達成感を獲得するためにやるひとつひとつのステップの細かい分解。本人のリアクションに対する細かい分析と対処。
がんばることもがんばらないことも選択は自分。がんばらせられることは心を死なせる。そういうことが大事なんだと思う。
がんばろうと思うことをもてるということも大事なこと。だってそれは夢を持って生きるということでもあるんだもの。そしてその気持ちを育てていくことが大事なんだと思う。何かに向かい合おうとするときに大事なのはポジティブな心。
それと。障害を克服するためにがんばるんじゃない。生きることを楽しむためにがんばるんだと思うし、そういう支援ってヤツをわたしは選びたいと思う。