リツエアクベバ

satomies’s diary

絵本なのか、絵本だったらさ、と思うこと

ポニョに対してのメモ

昨日はポニョについてのメモを入れた。自分にとって、できるだけ淡々と入れたつもり。要するに自分の違和感を整理するためのメモ。
ポニョはどうも混乱を起こす映画のようで、ポニョをとりあげたブログは多い。はてなブックマークで取り上げられるものはその混乱を評論していくような文章が多いようにも思った。でも、どうものその評論でも整理されない自分というものがあるなあとも思った。
まあ「えほん」として観るのならば。絵本にしちゃストーリーに人間巻き込み過ぎかと思う。「えほん」ならば、ポニョ視点中心もっと満載にして欲しいけど。アリエルみたく、自分の気持ち中心に強引に突き進むことに感情移入させてくれるほどにいってもよいじゃないか、みたいな。どのキャラクターに感情移入すればいいのか、筋を通してくれはしない。
「えほん」にしきれないのは。ポニョに出てくる「人間」の、いろんな立場の人物の「変さ」に、なんか見ていて巻き込まれてしまうんだよね。巻き込まれてしまって、整理に時間がかかるという感じ。
まず「ジジィ、『かーちゃん』なめんなよ!」ってのは思う。随所で「『かーちゃん』ってのは、そういうときにそういうことしないんだよ」ってとこがあって。
まあ最も思うのは、自分が行きたいとこに行くためという理由で「子どもをわざわざ危険の中で暴走運転の巻き添えにすること」とか、自分が行きたいとこに行くためという理由で「子どもを置き去りにして出ていく」とことかね。
「『かーちゃん』ってのは、そういうときにそういうことしないんだよ」ってのはさ、多くの場合、子どもを守るために自分の欲求を断念するってことを経験することなんだと思う。それをそういう機会を経験しながら子どもを抱きしめて積み重ねて行く。「かーちゃん」ってそういうもんだと思う。それがアンタ、あんな極端なとこでそんな極端なことするかいな、という感じ。
で、その対象になってる子どもが、「大人が喜びそうな子どもの象徴」みたいだしね。まあなんてご都合がいいんでしょう、と思う。そんなには簡単にいかないから、子どもってすげーし、かわいいのに。
ポニョを受け入れる、と、宗介が簡単に言えるのは、宗介に社会性を与えてないからだとも思う。いや厳密に言えば「中途半端な社会性」を出しているから余計に始末が悪い。「えほん」の世界で「ボクと不思議なポニョ」だったら、もっと小さな世界にしなきゃそれは魅力を出せないんじゃないか、とも思う。
「ボクと不思議なポニョ」に、あれだけ大人を巻き込んだストーリーにするならば。リサとグランマンマーレの会談のシーンでは、是非ともリサに「両手を腰に手を当て仁王立ち」にして欲しかった。だってそうだろうよ、子ども生みっぱなし適当育てをやった結果なんだから。そしてその結果、ポニョを引き受けて育てていくのはリサという結末なんだから。「アンタたち、おかしいんじゃないの? そのあたりちゃんとわかってるわけ? 『ポニョがこんなことでこんなことになっちゃった。じゃあこうしましょう』ってことじゃね〜だろうよ」って。なんだか相手がすげー存在であろうとなんだろうと、このくらいのことこのくらいの剣幕でやって、その後、ポニョと宗介に「にっこり」って方が、リサ、100倍かっこいいのにな。
まあわたしの最大の失敗は、ポニョを観るのに息子を連れていかなかったことだと思う。だって中2の男の子に「ぽ〜にょぽにょぽにょ」でもないだろうと思ったんだもの。
今一番興味があるのは、ポニョに関しての息子の感想。だってあの子は「ボクと不思議な姉」をやってきてるからね。だからこの実に中途半端な「ボクと不思議なポニョ」を、アイツがどう言うのかすごく興味がある。
レンタルになってからでいいかな、とは思う。この、ポニョに対しての宣伝大騒ぎが終わってからの方がいいような気もするのでね。部活だ宿題だ夏休み明けたらすぐ期末試験だ、ってのがあって、「おかあさんのお願い」につき合わせるには彼もそんなにヒマでもないのでね。