リツエアクベバ

satomies’s diary

今年異動してきた先生

娘の特別支援学校で。娘の学年の娘のクラスの、今年別の特別支援学校から異動してきた先生。なんだか最近、なにかっちゅ〜と二人で話し込む。
先日の作業能力テストの同行はこの先生。テストの後、テストのこととか日常の指導のこととか、特別支援教育に関してだとか、そしてプライベートな私生活とか、かなりの長時間二人で話し込んでしまった。
娘を見ていると、どんな風に育ててきたか、どんな視点で育ててきたかがわかるとおっしゃる。何についての話をしていても、結局先生はここに行き着く。いやいやいやいや、育ててきたかってたいそうなことではなく、非常に個性がはっきりしている子どもなんで、彼女の意向に応える線をこっちが鍛えられてきただけなんだけどと答えるんだけど。
とても仕事熱心な教員という感じ。まだ出会ったばかりなんですが、お話を聞いていると教材研究もかなり重ねてきたんだろうとも推測される。でも真面目だからこそ、おかしくてたまらん会話アリ。自分も忘れたくないので、ちょっと記録しておいちゃおっと。

娘が生理

先生:ちぃちゃんは生理中の処理の作業が一人でスムーズに行える。それを見ていると、母親がどんな育て方をしたかわかります。
わたし:いやいやそんなたいそうなことでもないですわ。教えなきゃならないことだったんだしね。
先生:おかあさん! 私は障害がある子の担任をしてもう15年です。特別支援学校の生徒でこれだけスムーズに処理が行える生徒はそんなにたくさんはいないんですよ!
わたし:(ムキになったことに思わず笑っちゃいながら)では具体的に説明するとね。コレコレコレコレでこういう風に、初潮前に伏線を引いておくんですよ。教えるってことを「初潮が来ましたはい始めます」、ではないんですよね。あとね、初潮後に仕入れた情報として、事前教育として学校でこんなことができるという話があって。それはわたしはかなりふむふむと納得だったので、ウチの学校の養護教諭の先生にはお話ししました。
先生:おかあさん! 私は障害がある子の担任をしてもう15年です。15年やっていてその教え方を全て知らなかったというのは問題じゃないですか!?

この先生と話してておもしろいこと。例えば生理中の支援の話ひとつ取ってもそう。「生理中の処理の作業が一人でスムーズに行える」とは言っても、通常の一般女性に比べちゃえば、それなりに下手なとこは無いでもない。そこで支援をどう行うか、どこまでの完璧をいつまで目指し続けるのか、てなとこ。
妙齢の女の子なんだから、いちいちトイレの個室に教師に入ってこられて、ほらココを上手にやれとか、コレを丁寧にやれだとか、そんなことをどこまで言われ続けなければならないのか、てなこと。
それよりは、まあ体の個性に合わせて用意する製品をいろいろ工夫して、トイレは声かけのみでという方がいいのではないか、とか。
だから初潮からの最初の一年間くらいの指導の到達点をある程度の目標にして、それ以降はそこで到達した線をキープさせられるように、そこを重点に初潮からの一年を考えた方がいいのではないか、みたいな。
聞いててすごくよくわかる。ちょっとした合いの手みたいな「そうそう」とか「そこでさ」とかというこっちの反応をぱぱっと受け取って、会話はどんどん盛り上がる。最近おもしろくて仕方がない。
金曜日の「カバンを線路に落とした」トラブルに関しては。本人が元々リュックタイプのカバンを、そのカバンについている手提げ部分を持つという持ち方をして電車に乗り込んだこと自体が原因だったとしたならば。
落とすような持ち方をすること自体を中止させるよう指導するのか、リュックタイプのカバンなんだから背負い続けろと指導するのか、そのカバンの手提げ部分を手提げ部分として使えなくしてしまうような改変をしてしまうか、はたまたカバン自体を肩に斜めがけのものに替えちまうかとか。まあ選択はいろいろあるんだけど。
両者の意見統一ちゃんちゃんとなった結論は。本人が「これはヤバい」と学習したであろうと本人自身を信頼し、そのまま同じカバンを同様に、何事も無かったように使わせること。「これはヤバいのだ」と本人が学習として認識する機会を失わせないようにすること。それが彼女の個性に合わせた選択ではないかということ。4年間にたった一度あったことのために、本人が自分で選んだカバンに手をつけない方がいいんではないかということ。
まあこの手の結論というものは、いろいろな価値観の中で決まることで、これまた正解なんぞ無いことなのかもしれないが。大事なことはこの選択に至るまでにどこまでの会話が指導者と保護者間で交わされたかということなのではないか、とも思う。
これからの一年間をこの先生と過ごせることは、いろんな意味で非常に楽しみです。