リツエアクベバ

satomies’s diary

結論の無い話

 霞先生とカイパパが、同じ文章に反応してトラックバック送信。

 がんばることもがんばらないことも選択は自分。がんばらせられることは心を死なせる。そういうことが大事なんだと思う。
がんばること自体は悪くないよ、悪いのはがんばらせられることだと思う

 この部分、障害の有無を越えて、いろんな人の具体的な話に関しての感想がつまってる。とりあえずそのひとつ、自分がそして娘が経験したこととその思い。ってことで、長くなるけど具体的な話。
 娘が小学生のとき。娘が在籍する障害児学級にとても熱心な担任がいた。熱心だった、丁寧だった、教材研究もすばらしかった、発想も豊かだった、生活上の細かい点も行き届いていた。この担任の方と出会って娘が得た力はとても多いと思う。なんの心配も無かった、ただ一点をのぞいては。
 ただ一点。娘が何か自分が苦手なことに取り組もうとするときに、悲壮な声を出すようになった。同じ言葉を繰り返す「がんばって、がんばって」「もういっかい、もういっかい」「がんばって、がんばって」。
 娘がお世話になっているピアノの先生が顔をしかめて言った「なんなのあれは?」「やめさせられないの?」「なんであんな声を出しているの」「あんな声であんなに必死に何かやらなきゃいけないことなの?」。
 娘のペースで娘が楽しんでやっていたピアノのお稽古の場面でも、やわらかに指示を出されることに対して、この「がんばって、がんばって」が出始めたと。やらなくていい、と、叫んで助けたくなってしまうと。
 う〜〜〜ん、アレ、今の担任の先生の口調なんですよね。何をやるにもああやって励まし続けるみたいで。とにかくできるまでべったりというかなんというか。熱心という言葉の元で、逃がしてくれないみたいなんですよね。
 「おうちではどうなの?」いやもう、アレ出っぱなしですよ。着替えるときとか、ちょこっと自分が時間かかる作業に関して、全部アレ出てきますよ。
 「どうしてるのよ」「やめさせないの?」う〜ん、わたしもアレ聞いててなんとも言えない気持ちになりますよね。ひーひーというか、かわいそうだし、何かを強制されて逃げ場がなくなってるって感が聞いてて強い。どうしようかなあとは思うんだけど、でも本人が選んでついていってるという気もしなくもない。本人が本当にイヤなら、ああやって生活の中全てにあの声出すとは思えないんですよね。だって学校以外であの声出すとき、誰にも「がんばれ」って言われてないでしょ? 言われてないのにああやって、自分でひーひー「がんばって」って言い続けてるわけだから。
 あとね、わたしは自分があんまり必死にがんばらせない親だってことを自分で知ってる。で、あの子がいろんな人と出会っていった方がいいんじゃないか、ってのがあって。よっぽどまいってるのでなければ、本人がついていこうとするんなら、ってのがあるかなあ今は。今は毎日のことだけれども、あの担任との接点は長い人生でいえばたった一時期にしかならないってこともあるなあと。
 それと、当の担任には悪いけど、わたしが何を言っても絶対耳貸さないと思う。あの熱心さでどんどん結果が出てる。そっちの自信の方が担任には大きいと思う。そして当の担任があの悲壮な声を聞いてなんとも思ってないんですよね。がんばってるってことになって、満足してる。だから多分感覚の違いになるだろうし、その感覚の違いで論争してもいいことはないんじゃないかとも思う。いいことは無いっていうより、本人が混乱するような気がして、どうもそこを避けたいとも思う。あの子を大人の論争に引きずり込みたくないというとこもある。だからわたしは逆に、自分が担当する家庭の場で、何かに向かい合わせることを極力避けてる。甘やかすことができる面に関しては甘やかすってことで、トータルでバランス取ろうかな、と。
 さて。この悲壮な声。この担任の方の異動で接点無くなってから、徐々に消えていきます、徐々に。きっぱりと無くなったわけではない。完全にこの声が消えるまで二年かかりました。でも、娘が何かに取り組むことをやめたわけでもない。「がんばれがんばれ」とがんばることをひたすら強制しなくても、本人ががんばる線を生み出していくような指導をしてくださる教員の方にも出会っていったということもある。そしてはっきりと変わったこと、本人が何かに取り組もうとするときの顔つき。悲惨な必死さは、もうどこにもない。取り組んでやり遂げた顔は自信をもった笑顔になる。以前は気弱な安堵のような顔しか出なかった、やり遂げたのに…。できたその先が違い過ぎる。
 「がんばって」「がんばって」。この熱心な担任の方は、わたしにも「障害児の親として」、そういう指導をしてくださった。わたしは「はいはい」答えて、実はテキトーに指示されることから逃げたりサボったりしていました。だってたまらんかったもの、この人の「がんばれ」は…。申し訳ないけれど、障害児の親だと、そんなに必死になんでもかんでも熱心さを強要されるような生活をわたしはしたくない。生活なんだってことが、この先生にどこまでわかってるのか疑問だった。でも生活うんぬんイコールそれではダメだになりそうで、えへえへ言ってへらへら笑って、劣等生を決め込んでました。「やれ」と言われたことも、テキトーぶっこいてました。
 本当は娘にも、そうやって自分を守る逃げ方を教えてやりたかった。どんなに素晴らしい指導でも、あのしみついた強制の匂いはぬぐい去りたかった。でも知的障害があるならば、本人の選択では、受け入れるか受け入れないかという二者択一しか無い場合はたくさんある。そしてあの頃止められなかったのは、本人が拒否していないことだから、それは本人が選んでいるのではないかと思ったこともある。拒否しようとすればできたはずだとも思う。わからない、結論なんて出ない、結論なんて無い。
 ひーひーと変な声をあげるのを聞くのはつらかったけれど。でも忘れられないこと。簡単な挨拶と、そして数少ない単語を持っている程度の言語能力の娘を前にして、この担任が言ったこと。「わたしはちぃちゃんと過去の話がしたいんです」。
 何を言い出すんだろうとあんぐりと口をあけた。この担任がやったこと。週末にあったことと、そのあったことを象徴する単語をいくつか、月曜の朝に連絡帳に書く。担任はそのキーとなる単語で娘にイエスノークエスチョンという簡単な質問をする。そしてそのキーになる単語で絵が描けるような流れにもっていき、その絵の下にその単語を書かせ、絵日記を作り上げる、イメージを共有する。「ちぃちゃんと過去の話がしたいんです」ということを、この担任は本当にやってのけた。娘は娘なりに、昨日という概念の報告をすることを覚えた。見事だった。
 こうしたことはこれ一つだけではなく、たくさんあった。強制ではない場のふくらませかたや楽しませ方、指導の豊さもたくさんあった。この担任を中心とした授業研はいつも定評があった。だから本人もついていったんだと思う。だからわたしもあの悲壮な声が出てくる指導を否定できなかったんだと思う。一部の否定を全ての否定ととられそうなことから、わたしが逃げたのかもしれない。実際そんなやりとりはわたし以外の保護者から出てきて、担任が全否定と取ってトラブルになった。
 どんなに本人ががんばったとしても、あの悲壮な声はわたしは二度と聞きたくない。この教員のことを人にたずねられると「素晴らしい先生だと思う」と答える。ただし一言付け加える「あの先生との接点から得られるものが有効なのは二年が限度だと思う。二年以上接点があった場合、心に対しての影響はけっこう危険な感じがする」。それが実感。
 ふと思うこと、あの担任は児童の中に人間が見えていたんだろうか。もしかしたら児童の中に自分の教育の成績表を見ていたんではないだろうか。今はそんな風に思う。