なんか妙に目を使うのが怖い。目にくっついた血の染みはどんどん薄くなってきて、もう誰も「どうしたの、それ」と驚いて聞きはしない。しないけれど、時間がたってくると、一番びっくりしたのは自分だったんだな、と当たり前のことを思う。
なんかその怖れのようなものを解決したくて、一日の中で空間のように存在した短い時間を駆使してメガネ屋に行く。安すぎず高すぎないようなメガネ屋。
いらっしゃいませと言われて、メガネを作りたいんですと言う。どうぞこちらへと言われてすとんと座る。うちでメガネをお作りいただいたことはありますかと聞かれ、わたしメガネ初めてなんですと言う。よくわからない、目医者に行ったら乱視と言われたと。
不思議な顔をするメガネ屋に、眼科に行った話と視力が悪いと言われた話をする。確かに目が悪くなってきたという感じはするが、目が悪いという感じが自分ではよくわからないくらい目が悪いことには縁のない人生ってヤツだったんだ、なんてことを適度に別の言い方で話す。
ああそれでは、とメガネ屋が言う。うちはメガネ屋だから見えるようにするメガネを作りたいと言われればそれはお作りする。でも、その状態ならメガネ屋で検眼ではなく、眼科医と相談の上、眼科医で検眼した処方を書いてもらった方がいいんではないかとメガネ屋が言う。初めてのメガネというものは、眼科で処方を書いてもらった方がいいのだとメガネ屋が言う。まして眼の疲れのようなものが眼科医に出向くきっかけになったというケースなら尚更だとメガネ屋が言う。
要するにメガネ屋にフラれてしまいました。タイミングを逸した。今週はもう忙しく、眼科医行って、それからまた、って時間が当分取れない。来週には姉が帰国するし、実家に頻繁に往復ってことも出てくるだろうなんてこともある。
まあ目ってのが疲れてるんだろう。確かに酷使していたなあと思う。きっかけは最寄りの図書館がもうすぐ半年間休業すること。それを先々週まで知らずあわてたこと。図書館が休業するまでにどれだけの本を借りてこられるかと逆算して、根詰めて本読んでた。それとは別に、別の機関から借りた本もあって、それもばたばたと読んでた。
その中の一冊、「妻がアルツハイマーになった―介護と追憶の日々」(ブクログのリンクなんぞ貼ってみる)。
まあ内容はタイトル及びサブタイトルのまんまなのだけれど、でもこの本は壮大なラブストーリーのような本だった。
「僕は貴方を離さない、貴方も離れてはいけない」と書いた通りに、私は寿子を、死ぬまで離さなかったのだった。しかし寿子は、その私の手を振り切るようにして逝ってしまった。
(「妻がアルツハイマーになった―介護と追憶の日々」)
「僕は貴方を離さない、貴方も離れてはいけない」なんてフレーズを反芻したいくらい、要するに自分はいつまでたっても女の子みたいなもんで、そしてそうありたいある自分が好き、なんてことを再確認。でも女の子なんてかわいらしいものではないのは、この本の中に出てくる、亭主がニョーボの導尿をやって、そのことにささやかな性的興奮をおぼえていたなんてくだりをふむふむと読み、そのこともまた大きく印象に残っていること。
この本を手に取ったきっかけは、8つほど年上の仲良しの女性が、同級生がアルツハイマーになったという話を聞かせてくれたことが印象に残っていたのだと思う。ご主人が「妻があなたに会いたいと言っている」と奥様を伴って訪問されたと。このときにダウン症のお嬢さんがよく話し相手になっていたなんて話を聞いたことが印象的だったこともあると思う。
んで、まだまだ読みたい本、借り出してきた本は手元にあるのだけれど。そしてタイトルだけ既知のまんまになっていた「アルジャーノンに花束を」が、近くの古本屋で100円になっていたのがどうも気になってはいるのだけれど。でも、なんか、目が怖い。今日は小さくなってきた白目の血の染みが消える頃には怖くなくなるのかな。
で、タイトルに入れてみた「とってもとってもたいへんだ」は、はてブに入れたJIROさんのエントリの中の本文から拝借。
雅子妃殿下とトランペット/JIROの独断的日記ココログ版
わたしは生活の中でクラシックを聴くということはとんと無いのだけれど、それでもこのエントリでJIROさんが聞かせてくれたバッハ:管弦楽組曲第2番(トランペット独奏版)はいいな、と思う。特にJIROさんが「とってもとってもたいへんだと聞こえる」と紹介しているバディネリというヤツがなんかとても気に入ってしまって、何度も何度も再生中。