リツエアクベバ

satomies’s diary

web上のやりとり、使う言葉、伝わる言葉

「読み取れない読者が悪い」/琥珀色の戯言
「話せばわかる」ような人って、「話さなくてもわかる」場合がほとんど。
 (中略)
そんな「非効率的な説得」に時間をかけるくらいなら、僕はひとつでも、新しいことを書きたい。

 webやブログが「同意系の媒体」って言ったのは、Lsty氏だったっけか、いやもうちょっと別の言い方だったか。
 人がその個性をもって使う文体や表現ってのは、それでその書き手の言いたいこと全てが伝わるとはいえるはずがないわけで。その本人の持っている思考なんぞの氷山の一角のようなものをぽこんと切り取って貼り付けるのにもちょっと似たりとも思う。そこで理解できるか理解できないか、なんてことは、その文字表現の上手下手とかそんな小手先のことでもなくて、書き手と読み手にとって、共通したある何ものかの趣味や好みだの思考だの体験だの情景だの記憶だの、そんなことの小さなピースが一個か二個はまればそれで「わかる」なんてことにつながっていくんじゃないかと思う。
 そのピースのハメ方がどうのとか、その言い方がどうのとか、そんな細かいことでもないような気がする。人間同士の実際の会話なんて、そんなことの小さなピースが一個か二個はまれば、どっちかが使う言葉の意味を多少まちがえて使っていたって、文脈理解なんてものはかなり活用されていくんじゃないかと思う。
 それは「一言一句正確じゃなくたって、意味は通じる」ってことなわけで、それはリンクさせた文中にある”「話せばわかる」ような人って、「話さなくてもわかる」場合がほとんど”ってのに、通じていくような気がする。
 web上では、その、たかが小さな文字の使い回しひとつ取って、こう取れるいやああも取れる、だから違うのなんだのかんだのなんだのかんだのと、そういう忙しいやり取りなんてものもあるなあ、と思う。それより何が言いたいのか何が言いたかったのか、なんてことの方がずっと重要なんじゃないかと思う。
 わたし個人の「読み方」で言えば、主旨や大意が伝われば、そこで出てくる表現だの前後のいきさつだのなんだのに多少の矛盾があったって、別にたいしたこともない。表現自体にケチをつける気もさらさら無く、ましてや過去記事にさかのぼって矛盾だ矛盾だのなんだのとも考える気も言う気も無い。
 で、戻って再度しつこくくり返して言えば、web上の個人で上げた文章に関しては、そこで理解できるか理解できないか、なんてことは、書き手と読み手にとって、共通したある何ものかの趣味や好みだの思考だの体験だの情景だの記憶だの、そんなことの小さなピースが一個か二個はまればそれで「わかる」なんてことにつながっていくんじゃないかと思う。
 そういうものがあるからブログってのは読んでおもしろいものになるんだろうし、そういうことが「つながった」上で出てくる議論なんてものが、有意義なものになるんじゃないか、とも思う。