リツエアクベバ

satomies’s diary

会話せずに対話

 はてブコメントのLsty氏のコメントの「そうなのだ」に「そうだよ」と答える。Lsty氏んとこに出てくるレッテルとか処理とか物語とか人とかなんとかだとかかんとかだとか、「だよね」ってとこはけっこうあったから。直接的にコメントとかトラックバックとかリンクとかやらなくても、そんな「そうなのだ」「そうだよ」なんてのがあってもいいかとも思う。
 まっち〜んとこの新エントリ「自尊心」。このコメント欄に、このエントリに書かれた内容が「自分が友達に言った言葉とそっくり」、という記述があった。
 これに対して、(いや、違うと思うな)とわたしは思う。わたしは「わたしが認めてあげるから」ってことは言わなかったよ。本人が本人で認めないと話にならないんじゃないかな、と思う。「わたしが認めてあげるから」ってのは、そこでもう「他者評価」になってしまって、ダメなんだよ、と思うよ。「他者評価」って域を出なかったら、プラスの評価とマイナスの評価の綱引きの材料になるだけだから。
 ココなんだよね、大事なとこは。どうやったって、他者の外側からの、ってことになったら変革にはなりにくい。自分が自分の力で変革していくには、「他者評価」ではなく「自己評価」っていうもの、特に自尊につながる自己評価ってものを作っていかなきゃならないんだと思う。この大事なとこってのは、自尊心ってものが自らに定着するかどうかの分岐点のようにわたしは思うんだけど、この人はそうは思わないんだろう。
 まっち〜に、いわゆる「自尊心」のコーチをやっていったのは、もうコレやらないと目の前にふりかぶってくるだろう「大波」の数々に耐えられないだろうと思ったから。溺れないように泳ぎ方ってのを持っていなきゃならない。暗闇の懐中電灯、大海原の救命ボート。それを何より彼女が自分で持っていなきゃならなかったから。
 誰の人生も、その人本人の力でやっていくしかないわけで。ってことが、まあ、重要なポイントなんだろうと思う。砂漠で枯渇ってときに、水あげるってことをやり続けるよりは、手渡していかなきゃならないのは井戸の堀り方なんだと思う。実際、井戸の堀り方を覚えた彼女には、わたしの存在は必要ではなくなっていった。それが一番大事なことなんだとわたしは思う。
 そのことを直接「対話」する気はわたしにはなくて、このコメント書いた人が一生懸命そう思ってれば、それはそれでいいんではないかと思う。このことに対して(いや、違うと思うな)ってのは所詮わたしの主観であって、そこに相違があったって、それはそれでいいんではないかと思う。だいたいまっち〜が出した「自尊心が大事なんだってことに気づいたんだ」ってこの文章の大意が伝わるってことに関して、ま、たいしたことでもないさ、って思うのだしね。
 なんてこと、Lsty氏にもまっち〜にも、そこ行ってわざわざ直接伝えなきゃいけないこと、ってほどまでにはわたしは思っていなくて。でも自分の脳内だけで終わらせたら永遠に伝わらないかもしれない。だから、いわゆる自分の場にちょこちょこと「日記」なんて名前をつけて書いておこうと思うわけで。気づいて受け取る気があったら、持っていってくださいという、軽い気持ちの伝言板