リツエアクベバ

satomies’s diary

病歴と生育歴と未熟な母と

 セキが落ち着いてきた息子が、今度は耳が痛い、と言い出す。多分今回の風邪で鼻水とセキだのなんだのと、鼓膜が炎症を起こしてるんだろうと思う。
 痛いなあ、と言うのを聞きながら、耳の付近をさわる。体温計を渡す。熱も無くこの程度の痛がり方なら、多分投薬程度で済むだろうと推測。そんなことをしながら、小さいときの話をしてやる。
 アンタは小さいときに大変だった、本当にすぐに中耳炎を起こす子だった。くしゃみひとつすればすぐに中耳炎の心配をした。鼓膜切開をしなきゃならない炎症が起きるのがしょっちゅうだった。そんな炎症が起きているときは、泣き方でもうすぐにわかってしまうくらい何度も何度もやったんだよ。アンタが一歳になるまでは、アンタは耳鼻科の待合室で育ったようなモンだったんだよ。
 鼓膜切開レベルの炎症を起こしている赤ん坊というのは、かわいそうだけれど、その泣き方はすさまじく、うっとうしいといえば甚だうっとうしい。泣きゃいいってモンではなくて、でもそんなことは赤ん坊は知ったこっちゃないわけで、それが正当な仕事のように泣き叫ぶ。命を危ぶまれた、小さな小さな声でしか泣けない赤ん坊ってのが第一子。それがどこかしら当たり前になってしまっている未熟な母緒のわたし、そのわたしは、命の危険なんてのに縁が無い第二子に対して(こんな大仰な声で泣き叫ぶほど元気があるじゃないか)、なんて視点でつい見てしまう。そんな差別視なんてものは存在したわけで、かわいそうといえばかわいそうなモンだったと思う。
 でもそれは本人には言わない。あえて言わない。そんなこと言ったって、双方何の得にもなりゃしない。ぎゃんぎゃん泣き叫ぶ声にひーひーとため息は出たけれど、だからって心配し世話をし、ってときに嘘があったわけじゃない。そんな言ったってどうしようもないことを、わざわざ本人に言うなんてことは、本人を傷つけようって意志がないのなら、言う必要なんてないんじゃないかと思うからだ。
 でもわたしは知っている。あのときのあの頃のわたしには、泣き叫ぶ赤ん坊を前にして、心底(やれやれ)と思う夜があったってこと。それはわたしが知っていればいいことで、本人は知らなくていいこと。わたしの未熟さというものに彼がつき合う必要は無い。
 耳鼻科に行く、医師が鼓膜の状態を診る。「わあ腫れてますね、これは処置がいりますね」。ってことで鼓膜切開。そうか、切開レベルだったのか。当たり前だけどこの年齢じゃ、泣き叫ぶわけでもない。でも痛かったんだね、と思う。未熟さにがんがんと響くような泣き声を出す年齢じゃないことに助けられるのは、誰よりもこのわたしなんだろうとこそっと思う。
 赤ん坊だったアンタは、ぎゃんぎゃんと泣き叫んでも、鼓膜切開の処置をした後は、すーっと落ち着いて眠ってた。だから鼓膜切開はそのときは痛いけれど、もうまちがいなく「助けてもらえる」処置なんだと思うよ、なんてことを話す。耳をおさえながら、そうか〜と、自分の経験を聞かされて納得なんてことをしていて、その素直な顔がまだまだかわいい。思春期に入る寸前の最後の楽しい時間かもしれない。母から見ればまだまだ幼さばかり目立つけれど、その足のサイズはすでに母よりでかいんだよね。