リツエアクベバ

satomies’s diary

昭和の思い出

 今回リンクした「はすぴー倶楽部」、面白すぎる。特に「アンビリバボーな昭和のくらし」。
 わたしの出身地である世田谷区の周辺はまだ畑はあったようだけれど、渋谷区との境にあったわたしの生家あたりはすでに畑は存在していなかったので、ここで出てくる「肥だめ」は無かったですね。でもドブはあいていたし、たまに落ちた。家の近辺に畑は無かったが、向かいの家の前にオート三輪があった。ああ、そうそう、下北沢は「水商売の多いヤクザの場所」って感覚があり、そして「アメ横みたいな商店街」に時々買い物に行く場所でしたね。そしてその付近の住宅地には大雨が降ると「床下浸水」「床上浸水」ってのがまだあった。「若者の街」になっていったのは’70年代後半くらいからだと思う。
 小学校の運動会には「足袋」が存在していた。この「足袋」は「早く走れるためのもの」で、足の遅い子が履くと恥ずかしかったのでわたしは未経験。でもリレーの選手は常に当たり前だった姉は、当然のように履いてた。「足袋」っても着物着るときの白足袋じゃないですぜ、「運動用」で、裏にゴムがあった。テニスソックスのような大きさで地面のけり出しに適した「競走用」。どっちかというと「地下足袋」に近いシロモノ、でも色は「白」。
 ちなみに低学年時代の女子の体操着は「ブルマー」。伸縮性のある素材ではなく、プリーツがあるスカートみたいな生地でホックで留めるもの。高学年になるにつれて紺のパンツになった。ブルマーにはブラウス着用、Tシャツみたいな体操着になったのは紺のパンツになってから。
 昭和30年代前半に生まれた人間と後半に生まれた人間で、その「環境」はかなり変化があったと思う。学校給食で脱脂粉乳を飲んだか牛乳を飲んだか、学校給食の食器がアルミだったかプラスチックだったか、家庭科の調理実習は七輪だったかガスレンジか、とか。「後半」生まれでも、上にきょうだいがいるかどうかで、この時代の記憶の様相は違うんだと思う。ちなみに中学受験のために通っていた塾で家庭科の調理実習の話が出ると、まだ学校によっては「七輪使用」ってのはありましたね。ははは。ちなみにわたしは「後半」、夫は「前半」。
 なんかさ、最近思うのは、昭和50年代以降の人にとってはこういうこと全て「昭和史」なんだな、と実感するようになったこと。自分にとっては全て「普通」のことだったけれど、そういや子どものときに見た「ホームドラマ」では、出演キャラの中に戦争未亡人とか、戦後の名残が当たり前に出てきていて、それを当たり前に見ていたなあと。
 歴史的な記憶を子どもの心に残す。なんて意味で、子どもにはニュースをきちんと見せるべきだ、な〜んてことを思う。大人になったときに、自分の生育歴の中に「時代の記憶」ってもの、残しておいて欲しいしね。