リツエアクベバ

satomies’s diary

時代の変遷

 むだづかいにっきを偲んで/あれとかこれとか(Lefty)

 記事内容に、おおむね同意。わたしはgooの初期参加組から数ヶ月遅れてのスタートだったけれど、今から見れば、「たった数ヶ月」しか遅れていない。えっけん氏や、他のgooブログの「メガコメンテーター」の方々の「新着日記」からの発掘の数々で、直接対話をしなくても「どこかのコメント欄で見たことのあるHN」というものは次々と生まれ、またコメント欄から「飛んでみる」ことは多く、そんなことからそうしたHNの方々に対して、直接やり取りはしなくても「既知の人」ととらえる感覚を生み、実際コメント欄で初めて会話をするときに「はじめまして」感は薄かったという印象がある。 
 また、えっけん氏は、いろいろなブログの個性や管理者の個性、よくつかんでいましたね。だからこそ、むだづかいにっきは、そこを拠点としてジャンルを超えた他のgooブログに対して興味を持つ出発点になる要素があったんじゃないかと思う。
 ただし、えっけん氏の興味関心はgooに限っていない、という姿勢はあったと思う。彼が出していくブログ、トラックバックが入るブログ、コメント欄に並ぶブログ、それらはけしてgooに限ったものではなかったと思う。
 gooでの出発の充実があったからこそ、他サービスも見えていったし、他サービスが見えていけば、gooというくくりを持ち続けることは不自然な要素が出ていく。そういうことなんだろうな、と。
 なんてことをはてなから発信する。これが現在の自分。これはわたしがgooの方々との交流で育てられ、ブログを育て、そのことで自分のgooブログの自分にとっての位置ができていったことからの要素。gooは広い場所に向かっていくベクトルを持たせ、そしてはてなは個人に興味を持って「はてなまで出向いてくれる」人を対象にするというコンセプトで今は動いている。
 わたしにとって、遊びで始めたgooブログから「たったひとつのたからもの」というドラマをとらえていくことは、ひとつの「挑戦」だった。それは自分のブログを、自分のライフワークというべきものの展開の、そのひとつの媒体としていくことを覚悟するものでもあった。実はけっこう、迷った。カラーの後戻りができなくなったらどうしよう、と。
 でも、踏み出したのは、gooで遊びながら、その交流相手にブログを育てる後押しをしていてもらったからだと思う。
 踏み出してからは、逆に自由になった。自分のいろいろな要素、そんなものを出し続けてきたと思う。この頃から「ダウン症」をキーワード検索し、トラックバックを打ち始めることが出てきた。検索をライブドアのサービスでかけていったことから、送信先としてのブログサービスはgooを飛び出した。
 そうして出会って、一番大きいのは、やっぱりid:fivefogs、霞先生だと思う。霞先生は、実は一度、わたしからの発信にこうした反応を出したことがある。わたしは正直、悪かったな、と思った。でもその後で、ノーマライゼーションの弊害というトラックバックを入れてくれた。わたしはこの記事は、一教師が経験の中で出したひとつの重要な、価値のある「記録」だと思う。また、わたしにとって大事な過去記事である知的に障害をもつ子を「育てる」ということ というのは、霞先生との重要なコラボレーションだと位置づけている。またわたしのブログが荒らされたときに霞先生が入れてくれたコメントに、わたしは「あなたのブログを大事にして欲しい」というメッセージを受け取り、気持ちを立て直すことができたなあと思う。障害を題材にするコラボの経験を超えて、人間関係としての位置は大きい。この「霞先生」は、はてなの住人だ。
 大胆で、ムチャで無鉄砲なことをわたしはくり返す。そこで心の足下がふらつくようなときに、重要な信頼感をいつも持たせてもらえているのがたこぽんだと思う。彼はニフティの住人であり、その後はてなの住人にもなった。
 小ト短調さん、πさん、じゅん吉兄、えっけん氏、こうしたgooの方々に、わたしは発見してもらえ、トラックバックを経験で教わり、たくさんの経験をした。こうした経緯の中でgooで育てられ、gooに基盤を持ち、そしてgoo以外のサービスの住人と自然と出会っていく。
 そうして人の持つ「時代」は、変遷する。その現象の一つかもしれないと思う。変遷があるからこそ、ひとつひとつの「時代」が見える。そこで見えていくもの、「見えていく」ということ、そうしたことをわたしは大事にしたい。
 むだづかいにっき♂が、ひとつの時代を終える。「第2回 僕が選んだgooブログ」という、今では懐かしい記事を再読しつつ、えっけん氏に送る言葉は、「次に始まるあなたの時代にいってらっしゃい」。