蔵書のありかのどこ掘っていいのか、どこから出てくるのか、黄色くなってたりすっげ〜奥の方にある本のどれだったっけとか、ちょっともうわからんちんな状態になってるので、文献を提示できない状態で申し訳ないのですが。
わたしは娘が生まれるまで、日本語教師というのをやっていまして。日本語教育能力検定合格ってヤツをもっていたわけです。いやこの資格っつ〜か、捨ててはいないのでもっているんだけど、でもすでに無用の長物なので「もっていた」と過去形。わたしが受験したときは合格率は18%というヤツでした。うん難しかった。いや難しかったというより試験範囲がとにかく膨大だった。
で、その試験範囲というのがコレ。
この試験勉強の参考書だったか、日本語教育に関しての書籍だったかで出てきたこと。日本の文化的背景と日本語の関連という話。
日本は山間部の多い島国で、農耕を主としていた国だった。川を中心として農耕を行うための村で集団が形成されていた。その川を中心とした限られた平地で農耕を行う環境で、村は重要な集団としての位置づけがあった。川と限られた平地を集団で共有して営む生活の中で、集団の意志というものが個人の意志よりも優先された。個人では生きていけない生活環境というものが、集団の意志というものを優先しなければならないということに結びつく。地形と自然環境が影響を及ぼしていく要素の存在があったのが日本という国。
文章や会話の中で、行為の主語が明確に出てこないということが多い。それでその行為の主になる人間が「わかるはず」という、集団の中で個を見るという言語的特徴も、その自然環境と生み出された集団文化から説明できる。日本語という言語文化の中には、その要素が多分に含まれるために、日本語という言語文化の使用者のパーソナリティにも影響を与えていく。
なんてことだったんですよね、ほ〜、となんかとても納得したことだったのだけど。文献提示できないので、自分の理解の範疇としての説明にはなるんですが。
ってことで、そんな説もあったよとfuuuuuuunさんに渡す。ブクマコメントで遊んでくれたお礼。
↑の追記
ブクマコメントからあらら、と思った。fuuuuuuunさんごめんなさい。ブクマコメントの引用部見て、わあしまった、と思った。「日本という国」という表現の重複部。本文修正しました。
あとbobokovさんのコメント。日本語教師ってヤツが、がっちがちの正しい日本語ってのを使うわけじゃないと思うよ。どんなにがっちがちの正しい日本語ってヤツを教室でやっていたって、日常生活の中でいわゆるスラングいっぱい持ってくるし生徒さんは。そのスラングを理解するための例文を作り出して渡せるか、ってのもあった。
現在の日本語教育界ってのがどうなっているのかわたしは離れた人間なんで疎いですが。あくまでも自分がその中にいたときのこととして。
良い日本語教師の条件とは。
- 短時間にどれだけ具体的な例文をどれだけたくさん作って例示できるか。
- 質問に対してわからないことをわからないと言い、わからないことを調べてくると生徒の前で謙虚に言えるか。
なんてことだと思う。例文は具体的な例であってそこから学べるわけで、多角的な視点で見られる数々の例文をすぐに出せるかどうかってことは、理解を助ける使用のレベルをあげるということの上で大事であるということで。
日本語を母語*1として使っているからって、日本語自体を全て知っているわけでもなく、外国語として勉強している人間から聞かれてわからないことはある。そのときに母語として使用していることからくる「感覚的な回答」ってのをやることの危険性ということ。それは自分の主観を渡しているだけという場合があること。感覚的な要素を言語研究という裏付けで見ていかなければならないということ。
また、教師と生徒が大人同士であるということ。生徒からの信頼というものを得るためには、わからないことをわからないと言えることが大切だということ。もちろん調べてくるという姿勢の上で言える言葉なんですけどね。
日本語を母語としているからといって、誰でも何も勉強しなくても日本語教師になれるわけではなく、まあそれ相応のお勉強はいるわけで。日本語教育という中で出てくる用語をいくつか出せば。「て形」「い形容詞」「な形容詞」なんて文法用語ですかね。これらは初級レベルの授業で出てくる用語。「て形」は活用の形のひとつ。「待ってください」「雨が降っています」「東京に住んでいます」「使っていいです」「朝起きて、ご飯を食べて、学校に来ました」「甘くておいしい」「彼女は親切できれいです」「仕事が終わってから買い物に行きました」「わたしは大人であの子は子どもだ」などの違いとその使用例とか。「い形容詞」は形容詞、「な形容詞」は形容動詞。形容動詞を「な形容詞」とするのは「名詞プラスな」で同様の働きをするものがあるということが理由。
この辺の導入部は職場を得るための採用試験でよくモデル授業として使われていました。採用試験ってのは、まあオーディションのような傾向はあったな、という感じです。
日本語教師は日本語研究オタクになるために、ギャラが参考書購入で飛んでいくという、実に割に合わない仕事ではありましたね。異文化にふれ、また自分のわかっていたはずという概念が次々吹っ飛ぶ体験という意味で、実におもしろい仕事ではありました。