スポーツの場面でよく聞く「感動を与える」という言い方。聞きながらいちいち違和感で仕方がない。
言葉の意味としては「影響を及ぼす」の意で(感銘を与える、苦痛を与える)として、スポーツエリートの世界の会見指導を受けて使っているのだろうと思う。
そうでなければあんなにみんなで、判を押したように同じフレーズは使わないだろうと思う。
しかしどうしても「与える」という言葉には、「花に水をやる」的な上から下ベクトルを持つ感がにおう。(褒美を与える、餌を与える)
「感動を渡せる」くらいにできなかったものか、といつも思う。
別にアタシが東京に呼びたかったわけじゃねーし
と、今多くの人が思っているだろう東京オリンピック。とにかく汚い大人の世界がもろ見え大安売り。
この現状の中でアスリート、自分の活動以外話さない人もいるし、意見や考えを表明する人もいる。
しかし、「表明する人」の言葉にはどこか違う世界の人感が残る。あなたが思うほどオリンピックが大事な人ばかりではないし、大事なものをぶちこわされた人はコロナ禍にはたくさんいる。と思ってしまう。
表明しなくても、平野美宇のリオの悔しさは知っているし、顔つきががらっと変わった桃田のストーリーは日本中のおばちゃんの支援がつきそうな気がする。あっという間に終わるかけっこも、楽しみではある。
しかし結局、勝ったら「感動を与えられた」とか言うのかな、やっぱりなんか好きになれないフレーズだな。
このコロナ禍で、ゴリ押ししているオリンピックにどこまで感動できるのか、よくわからないなと思う。