リツエアクベバ

satomies’s diary

古い友人が宅配で美味しいものを送ってくれた。この友人とは返礼のことをお返しではなく「仕返し」と言い合ってる。「ありがとう、うれしいわ、お返し送るね」ではなく、「くっそー、仕返ししてやる!」という返しになる。今回はわたしからの仕返しが先方に非常に喜ばれたとのことで、その仕返し。だから仕返し無しで、ということだった。

いやしかし。封を切って叫ぶ。「いやあなた、これは仕返し無しは無理だ」。夫も同意する「これはすごい」。

前回非常に喜ばれて今回の仕返しにつながったのは、娘の事業所のさおり織りのポーチとクッキー。
コロナ コロナ で出店予定イベントが次々に流れている現状、喜んで製菓班に注文を出して仕返しをしようと思う。

いやしかし。問題は今回の宛名だった。真面目に間違えて、わたしの名前を旧姓で送ってきた。「ちゃんと届けた黒猫をほめろ」とLINEする。

わたしの旧姓と現在の姓は、漢字二文字でその一文字が同じもの。つまり他人にとってはたいして変わりはない。
それでもわたしは結婚の時に(夫婦別姓の法律があったらなあ)と思った。
姓が変わることに対する「自己喪失感」。それだけで充分、別姓を希望する理由になると思う。

わたしが自分の希望を希望のままで終わらせたのは、夫の両親の人生を尊重したからだった。神奈川の片隅の代々続く旧家。夫の両親がそのことをとても大切に生きてきたのはよくわかった。別にわたしがそこに地雷を持ち込むことはない。

わたしが結婚してから30余年、時代はまだ夫婦別姓を認めない。希望する人も姓を変える不便を訴える人も増えているのにね。

そんなことを、旧姓が書かれた伝票を見て改めて思い出す。

わたしの人生は、旧姓の時代より現在の姓を名乗る年数のほうが長くなった。今はどう思うか。よくわからない。自分の名前は下の名前だけで、姓は単なる記号のような気もする。現在の姓をまた手放さなければならないとしても、旧姓のときの喪失感というのとはまた違う気もするなあとも思う。