リツエアクベバ

satomies’s diary

おかあさん

猫が、よくない。

四月に調子が悪そうなので医者に連れていった。3.3キロだった。輸液、注射。飲み薬。持ち直したと思っていた。

「猫」「排尿困難」「排尿障害」とかのワードで検索した。とにかく何度も何度も、そこそこ長時間トイレで排尿しようとするが出ない。時々出る。トイレでないところでも排尿体勢でいきみ続ける。そこでポタポタと出るときもある。
土曜の朝、医者に連れて行った。

腎不全の悪化、膀胱炎、だそうだ。体重は2.9キロまで落ちていた。診察台でポタポタと落ちた尿で検査をした。蛋白が出ているそうだ。輸液と注射。今日も輸液と注射。

「あとどのくらい生きられますか」
「20歳まで生きられますか」

前に「20歳まで」の質問をしたときは、最近の飼い猫は20を超えるケースが沢山ある。そう言っていた獣医師が「猫は20歳を超えるのは難しいですよ」。
助手を務める奥様がそっと「この夏を越えるのは厳しいかも」と言った。

今まで調子が悪かったとき。輸液の効果は目に見えてわかった。でも今回は違う。効いてはいるんだろうが、もう快復には限界があるんだろうなと思う。

処置のときに助手を務める奥様が、猫に「おかあさんはここにいるから」と声をかける。
前も思ったが、今回も思った。
わたしはこの猫のおかあさんではないよなあ。

猫は。子猫の時から「育てる」とはちょっと違うような気がする。猫は飼うとか育てるとかいうよりも、「そこにいる」「同居する」生き物のように思う。
「育てる」というより「扶養する」という方が近い。

わたしにとってこの猫は「ぷっちゃん」だ。ではこの猫にとってわたしはなんなんだろう。
ごはんをくれる人間だろうか。子どもたちが小さいときはわたしが主にごはんを出していたような気がするが、そのうちにあげたい人がやっていたし。
猫は夫にねだることが多かったような気もするし。
今はわたしだけがごはんを出す。それは食事の量をきっちり管理するためだ。食も細い。そんなにありがたがられているようにも思えない。

「こんにちはあかちゃん、わたしがママよ」という歌があった。わたしはこの猫に自己紹介をしてないな、と、突然思った。
「ぷっちゃん」と呼べば振り向くし、返事もするし、めんどくさいときはシッポを振って呼ばれたことに応える。
この猫は自分につけられた名前を知っている。
では、わたしは誰なんだろう。この猫に自己紹介したことも名前を教えたこともない。

子どもたちがわたしを「おかあさん」と呼ぶ。だからあのおばさんは「おかあさん」なんだろう。
この猫の理解はそんなところだろうか。そうしたらわたしは「おかあさん」なんだろうな。
猫が「猫」ではなく「ぷっちゃん」と名前を認識しているように、わたしは「おかあさん」という役柄名ではなく、わたしにだって名前はあるんだよと、少し淋しく思う。

でももう間に合わない。わたしはこの猫の生涯において「おかあさん」をやりきろうと思った。
夏、越えたいな。