リツエアクベバ

satomies’s diary

アレはなんなんだろう

きょうだい児の成長上の話。昨日、小学生の子のママと話した。ダウン症の子のきょうだいの子の話。「あったあった、そうそうそのくらいの年令の時期だった」。
ハンディのある子のきょうだい児の話。そのハンディの種別、難病だとか障害だとか、その障害から出てくる支援やトラブル等の状況だとか。そうした背景や環境によって、きょうだい児の成長上のアレやらコレやらに違いがあることも多いと思う。
今回での「あったあった、そうそうそのくらいの年齢の時期だった」というアレについて。

  • いわゆる見た聞いた的この場合の「アレ」についての発生する環境
    • ダウン症の子が「上の子」である場合の「下の子」の立場の男の子。
    • 「上の子」が「兄」の場合も「姉」の場合も現象を確認。
    • 「上の子」と「下の子」の関係が良好。一緒に遊びながら育っている。
  • いわゆる見た聞いた的この場合の「アレ」についての発生する時期
    • 「下の子」が8歳〜10歳あたり
  • いわゆる見た聞いた的この場合の「アレ」についての発生する状況
    • 「下の子」が「上の子」に対して、ルールをもった遊びに誘う。
    • 「上の子」は、そのルールを理解できず、その遊びに対して興味を示さない。
  • いわゆる見た聞いた的この場合の「アレ」についてのきょうだい児の様子
    • 泣く。
    • 泣いている時間が長い。
    • 「◯◯が遊んでくれなくなった」「◯◯はボクのことがキライになったんだ」と言う。
    • 「下の子」は、「上の子」のハンディについて気づく状況を既に「とっくに」経験している。

わたしの解釈では、「『上の子』の障害をその子なりに認識する機会はあり、それなりに理解してはいたが、自分が確実に『上の子』の発達を追い越すことに対しての心理的抵抗からくるものか? この心理的抵抗は『兄・姉を喪失するという状況』と心のどこか奥底で認識し、それにおそれをもっていることからくるのではないだろうか」的なところに落ち着いたと思う。
しかしそれは、この「アレ」について、ある程度の時期を見つめていたことで、その時期が終了したようなところを超えて(ああ、もしかしたらこういうことだったのかもしれない)的な解釈であり、個人の感想というところでもある。データとった研究とかで見たことはなく、いろいろなきょうだい構成の家庭の中で、ほんの一部同士で「あるある」といった例でしかない。
他のトラブル等とちょっと違うのは↑の「きょうだい児の様子」。「泣く様子や泣いている時間の長さ」は、同じ子が「泣きたくなる状況で見せる様子」とは明らかに「どこか違う」。
昨日、この時期真っ只中の小学生の子のママと話していて思ったこと、言っていたこと。男の子だから自分の気持ちが自分でもうまく言語化できず、自分でもよくわからず、しっちゃかめっちゃかになってるとこはあるのかな、あるのかもな、とも。狭い狭い個人の範疇では、女の子では聞かないんだよな。
とにかく。人生で生まれて初めて「せつない」という感情を抱えたのではないか、というようなメソメソっぷりなんだよな。メソメソメソメソ、しみったれた泣き方をするし、泣いてる時間は長いし、早く泣き止ませようと叱責してしまう、という話を聞いたこともある。でもねえ、まあとにかく泣かせてやってはくれまいか、というのがわたしのスタンスのように思う。
だって。こんなシチュエーション、こんな感情、自分は経験してきてないもの。何も言えないもの。そうしたシチュエーションが生まれる状況の運命を渡したのはこっちだし、そうかとココロに寄り添う以上のことはできないつらさもある。
きょうだい児の立場をもった人たちが、その成長上で抱えた気持ちや思いに関して口を開くことが増えてきた昨今。この「アレ」について、誰か語ってくれないかなあと待っているところはある。ただ、多くのきょうだい児の環境の中で「発生する環境」が全て揃って、このことについて「親に語ってくれる人」となると、けっこうレアなのかもしれない。しかしいつか、「こういう風に思ってこんな風に悲しかったような気がするよ」という話を聞きたいなと思う。子どもが育っていく姿の中で、かなり強烈な印象を与える「アレ」であったとも思う。