リツエアクベバ

satomies’s diary

いや、正直なとこ理屈抜きに「イヤ」ですけどね。

2011年2月1日更新分「ピューロランド」
ただ、混雑の中の待ち時間とかですっかり機嫌が悪くなってる子どもたちにじろじろ見られるのはちょいと閉口しまして。それを言ったら友人が「ウチの子もピューロランド大好きよ、平日ねらい目よ」と。その「ウチの子」ってのがでっかい自閉の男の子。ゴメン、なんか勇気出た。とかっていきさつあって、さて平日代休だチャンスだとばかりに出かけてきました。
コメント
特に子供の視線は遠慮ないので
そら、見るだろうとは思いますが、そのことよりも視線を苦に思う自分が嫌っていうか、わが子を恥ずかしいと思っているようで・・・

わたしは絵が下手なんですけどね。ニュアンスってのは文字より絵だよなあと思ってお絵かきに挑戦。あのね。


こういうのだったら、まあ許容なの。マイノリティな子を連れて歩いてるわけだから、見るだろってのはあるの。ダウン症の子を産むと最初はコレもキツいが、ダウン症の子のかーちゃんを数年やればすっかり慣れるとこだとも思う。別に恥ずかしいとも思わん。


「ピューロランド」のエントリに出した「イヤなの」はこのタイプ。「子どもが眉間にしわ寄せてこっちを直視する顔」ってのの強烈さ、ってのがわかるかなあ。この「眉間にしわ寄せて」ってのを強烈にやる子どもってのは、けっこう幼い子に多いと思う、特に学齢期にかなり近い幼児。もしくは低学年児、かなあ。多分「今まで見たことが無い変な子」ってカテゴリーに入るんだと思う。「眉間に発生するしわ」は、嫌悪というより「自分に発生する、というか、こんこんと湧き出る違和感」という衝撃のような感じだと思う。
他の自治体ではわかりませんが、障害児学級の設置率が小中共に9割を越える横浜市では、どこに連れて行っても小中高くらいの子どもからはなんの視線も受けませんね。「見慣れた平民」。
だから「理屈」ではわかるんだ、許容もできる、「理屈」では。ただね。


ごく単純なとこで、うれしいか? こんな顔した視線をじいっと浴びて。この視線はさ、「じいっと」とくる。じーっと、じろじろ、じとっと。受ける側にしたらこんな感じで受け取ると思う。
じゃあどうすりゃいいのかってことなんだけれど。何にもできないよね、浴びる側は。その感覚に対して「こっちは恥ずかしいことじゃないんだ」と強くなる他は無い。たださ。「子どもが眉間にしわ寄せてこっちを直視する顔」ってのを見させられて、うれしい人なんざいないと思うけどね。
あとさ。
遊びに行って、この顔の「集中砲火」を浴びたいか?とは聞きたいね。
    
夏休みの日曜に行ったピューロランドは、ホントにこんな視線の巣窟だったんだもの。この視線が「終わる」ための唯一の方法はさ、「この顔してくる子どもが別のことに興味を惹かれること」なわけで。ショーやレビューが始まってしまえば、誰もこんな顔で他人を眺めてるヒマなんて無いわけ。ところが混雑の行列なんて、物珍しい他人を眺めることくらいしか無いってとこだと思う。待ち時間や混雑で疲れてる親たちは機嫌が悪くなってる子どもの気を惹こうとする元気も無い。おとなしく待てない、口を開けば文句になってしまう、親には怒られる、黙ってなきゃならないけど行列はヒマだ。あ、アレはなんだ、なんか変なのがいる。……。自ずとこっちはスターだぜ、まいるぜ。
混雑は混雑でも、ディズニー関連でそんなにこんな思いをする感覚が無いのはあっちは解放空間で「見るもの、興味を惹くもの」がもっといっぱいあるからだとも思う。ピューロランド、狭いからなあ。
さて娘本人はどうか、と。かなり昔はどんな顔で自分を見てくる子どもに対しても、軽く手を振ってました、皇族みたく。なに考えてるのかわからんが、反応されると相手は見るの止めるし、何より見られる娘本人が笑えてしまうほど堂々としていてかっこよかった。ただそのうちそんなことも飽きたのかやめてしまった。しかしやめてしまっただけで、自分を見る視線というものが存在することは知っているはずで。
    
この状態に娘は耐えられると思う。その中で生きてるし。ただ、わかっててそこにわたしが娘をおきたいか、ってのはまた別じゃない?とも思う。
そこで友人の「平日ねらい目よ」ってのは、まさに天からの声、のようなもの。そこで貴重情報として拝聴したというとこです。
結論:イヤなもんはイヤ。人はどう思うかは知らんけど、わたし自身は「障害受容の踏み絵をアレコレ作るのはやめようぜ」と思う。イヤなもんはイヤだ。しかし他者を変えることはできないので「利口になること」しか避けようが無い。避けられれば避ける。方法をさがす。とか。自責はキリ無くなってしまうし、他責も得られるものは無い。「知恵」が一番。