リツエアクベバ

satomies’s diary

きょうだいの配偶者/その3「僕の歩く道」から


数年前のドラマ「僕の歩く道」を思い出して、再視聴。視点はこのドラマの「きょうだいの配偶者」である真樹に。

僕の歩く道/ウィキペディア「登場人物」より抜粋。

秀治の妻。息子の幸太郎を、将来東京大学に入学させることだけはとても熱心だったが、幸太郎が幼児のときに通っていた絵画教室での作品の中に「大好きなお母さん」と書かれた絵を見つけ、見失っていた何かに気づいたようである。
本作における「極度の差別的視線」をもつ人物のひとり。
結婚時に「姑の容体に何かあった際には輝明を施設に預ける」という約束をしているなど、輝明のことを邪魔者としか思っていなかったが息子のことで純粋な輝明から出た言葉がきっかけで最終回時点では多少考えを改め、輝明に対し感謝の意を持っているようである。

うううむむむ、と、考え込んでしまう。このドラマ、放送時には真樹視点では全然見ていなかった。主人公主人公家族目線でストーリーを追いかけるときの「悪役」的存在であり、「考えを改めていく」成長を好意的に受け止められていくといった「役柄」だと思う。たいがいの視聴者はそう見ていたんではないか、と思う。
しかし。この「真樹」を「真樹の作り方」を、きょうだいの配偶者達は冷ややかに見ていたんだろうな、と思った。
そういう「真樹視点」で見ると、このドラマはけっこうキツい。ステレオタイプな「部外者の、差別的悪役」にもっていってある。見ている人が同情的にならないような「性格的な欠点」も盛り込んである。人間にはそもそもそれぞれ欠点があるのが普通なのだけれど、真樹の欠点だけが、ストーリー展開に関係あるように「設定されていて」、真樹の欠点だけが「目立つ」。また、「将来的には施設に預ける」だの「輝明に結婚式に列席して欲しくなくて、海外での挙式」とか、そうしたエピソードが真樹に対して否定的ニュアンスをもって出てくる流れもある。
以下、第三回で出てくる食事のシーン。真樹、ニコニコと微笑みながら、「実によくやってる」と思う。

出前の寿司が並ぶ夕食の食卓。母、兄と兄の妻と兄の子、テル、妹。全員で「いただきまーす」。
兄:随分豪華じゃない?
母:輝明が正式採用になって。今日が初日なの。
兄:え?そうなの?
真樹:(姑に)おめでとうございます〜。(テルに微笑みながら)輝明さん、おめでとう。
テル:ありがとう。
兄:でもよく雇ってくれたな、続くかどうかは別として。
母:続くわよ。
真樹:輝明さん、頑張ってね。
妹:「頑張って」って言われても、お兄ちゃん、どう頑張っていいかわかんないから。
真樹:(驚いて義妹の顔を見て)ええ?(言いながら夫の顔を見る)
兄:まだ越してきて三ヶ月だから、輝明のことわからなくてもしょうがないよ。これから。少しずつ、な。
真樹:(夫の言葉にテルを見ながら微笑み)もちろん!
妹:それから。お兄ちゃんはいつでも精一杯頑張っているんで、「がんばって」って言葉はかけないでくださいね。
真樹:…。(微笑んで)はい。(テルに)ごめんなさいね。

これ、この状況に真樹として「いた」としたら。たいがいの人はこの、自分だけが周囲の顔色を伺うような状況に傷つくと思う。字面だけではわかりにくいが、真樹視点から見ると14歳下になるこの「小姑」のモノの言い方はけっこうなケンがあり、真樹の「ニコニコ」が痛々しくも見える。
真樹は頑張っていると思う。それは、二世帯住宅の形態で同居するということを決めた覚悟かもしれない、とも思った。完全別居とは違うことになるだろうとも思っていただろう。ただそれも、「住居を手に入れたんだから当然だろう」という視線を向ける層も充分いるだろうということは、これまた前提の上でなのかもしれないけれど。
放映時にはそんなことにすっかり気づかず、流れに乗るように「真樹は未熟な女」的視線を向けてすまなかったと思う。いや、よくやってる、よくがんばってるよ、ごめんなさい。