リツエアクベバ

satomies’s diary

ブログ読んでます

今日は娘が4月からお世話になる事業所へ。これからのことや書類のことなど。本当はもっと早い時期に次年度の新規利用者のための説明会があったのだけれど、行けなかったので今日になった。
一日の流れ、一年の流れ。こんな風に動き、こんな風にこちらは考えています等々の説明を聞きながら、ああそれはブログにはこう書いてあった、ああそのあたりについてはこんな風にブログに指針が書いてあったとか思う。
ここの事業所はブログをもっていて、数日おきに日々が更新されていく。障害関連のニュースがあったときには、そのあたりにもふれられていく。さらりとした文体で、風景のように日々を綴り、そして指針のようなものがベースとして流れていく。
そんなブログの記述を思い出しながら、説明を聞いていく。説明してくださる方がこのブログの更新を続けている執筆者であることは、もうわたしにはわかっている。
でもこの方はわたしがこのブログを読んでいることは知らない。説明を聞きながら、このことについて一言で語るのはもどかしいだろうなあと思う。ブログでの記述は自由にできる。たとえ短い記述であっても、考えていることの本質にふれたりすることはできる。でも、さあこの話はですね、と、こうした機会に同じように伝えるのは難しいだろうと思う。
人と話していて。ああこのことに関してはブログで書いたと思うとき、自分が書いてまとめた自分の頭の中を、自分が書いた文章の記憶をなぞるように話していることがある。実際の対話の中では、その、自分が言いたいことを全部言えるわけではないし、対話では伝えきれないところがあるよなと思うところもある。そんなもどかしさのような表情を、相手に見つける。
「わたしブログ読んでます」。
「そのお話は、○月の××の話題のときにこんな感じでふれられていましたよね。わたしはこれこれこんな風に解釈しています。なのでそのお話はよくわかります。行事に関しても、その行事については○月の過去ログを読んだので知っています」。
「これからの日々でいろいろなことがあるだろうと思います。そのひとつひとつの具体的なやり方がどうとかそういうことではなくて、あのブログのベースに流れている指針がよく理解できるので、わたしはそのベースのようなものを今、信頼しているんです」。
この「わたしブログ読んでます」ってのを、実際に伝えるかどうかは決めてなかったんだけど。ああ言った方が話が早いなと思って伝えることにした。結局伝えた方が話が早かった。言葉を使ったものが共通理解として存在していて、そのことでたくさんの言葉が必要無くなった。
さんざん悩んで決めた娘の進路先では、ブログという媒体をもっていた。合格という文字を見るまで入学できるかどうかわからなかった息子の志望校には、日々ブログの更新を続ける教員が存在する。これから娘が通う所も息子が通う所も、その二つのブログの過去ログから、季節ごとの流れがわかる。ラッキーだったな、と思う。