リツエアクベバ

satomies’s diary

臓器移植に関するメモ

“ラザロ患者”の存在

  • 子どもの脳死には「長期脳死」の可能性があり、脳死状態でも成長を続けるケースがある。
  • 子どもの脳死は、長期脳死とは言えないまでも心臓死に至るまでにある程度の日数がある場合がある。
  • そのどちらのケースに関しても、「医療により生かし続けてみなければわからない」。
  • 子どもの脳死には脳死から心臓死に至るまでに、親が子どもの死を受容していく時間という「看取りの時間」が存在する。

(同じサイトに15歳までの年齢別のデータ)

脳死状態で生存を続けるための「医療費」

  • 自治体により差はあるが、多くの自治体において乳幼児医療費助成の制度があり、乳幼児の脳死から心臓死への「看取りの時間」において医療費の自己負担額が発生しないケースが多い。
  • 脳死がヒトの死であるとして子どもの心臓移植を行っている国で、保険やこうした医療費助成制度はどうなっているのか。「看取りの時間」に経済的余裕が必要という現状があるのかどうか。「経済的負担によりベッドを追われるドナー」が存在するのか否か。
  • 臓器移植のA案が可決。「脳死をヒトの死とする」ということが臓器移植に限ってということになっているが、「死体となっても医療費が発生する子ども」に対して乳幼児医療助成の対象にならない日が来るかもしれないという懸念。いわば「死体に助成は要らない」ということになる可能性はあるのか。「看取りの時間」をもつことは「ぜいたく」となる日が来るのか。

その他

  • 子どもが脳死に陥った時点から、「死をせっつかれる」時間が始まることがあるのか無いのか。
  • ドナーとなることが望まれた人とその家族に対して、そこにどんな時間があるのか。ドナーとなった時点で「終わり」とされるのか、ドナーになった時点で「その後の精神的ケアの開始」が存在するのかどうか。
  • 渡辺淳一の「ダブル・ハート」では、ドナー側の執刀医とドナーとなった人の遺族側から描かれていたという記憶。心臓移植の「光と影」の影の部分という印象。

「はだかのいのち」

はだかのいのち―障害児のこころ、人間のこころ

この書籍の中で著者は「心身とも重い障害児者」に対して「はだかのいのち」と表現する。脳死状態に陥った子どもにも翌日翌月翌年というものが出てくる可能性があるのならば、脳死に陥った子どもたちは「心身とも重い障害児者」よりももっとさらに「はだかのいのち」なのではないだろうかと思う。
脳死は「死」なのか、それとも風前の灯火という「はだかのいのち」なのか。それとも「新鮮な臓器をもった体」なのか。
脳死状態にかすかに残る「はだかのいのち」の命を思う気持ちが伴わなければ、脳死状態での移植に「命のリレー」という言葉がふさわしくなる日は来ないんじゃないか、とも思う。