リツエアクベバ

satomies’s diary

迷惑とか喜びとか

昨日、帰宅した息子に「今日、大変だったんだよ」と言う。「電車止まったんだって? 学校で聞いた」と息子が答える。「ちぃちゃんどうした?」と聞くので、そのまま「あのね」と話をする。
「うざっ」ってとこで怒るから、「ちがうちがう、おかあさんも悪かったんだよ」と言う。「あのさ、動かない電車を待ってる人の列なわけ。だからそこで障害だなんだって前に行こうとしてるように感じるよなと思う。おかあさんが悪かったのはね、『とにかく連れて戻りたい』、つまりキャッチして戻りたいんだってことをわかりやすく言えてなかったってこともあると思うんだよ」と。
駅から救出したら、駅のそばのコインパーキングに停めていた車を使って学校に送っていったという経緯なのだけれど、そんなことまで長々と演説して叫んだわけじゃない。まああそこで叫んで伝えたことを聞く人には「前に行かせてくれ」ってことだけが響くってことがあるわけなんだよな、と。まあズルな横入りってのに障害を理由にするのが問題になるのは、ディズニーリゾートが経験したことだろうとも思う。ズルな横入りってことじゃない事情を深刻に持つ人自体に迷惑をかけた人も存在したということもある。その後、相談機能を充実させたり、「列には並ばなくてもいいけれど、待ち時間は平等に」ってやり方を打ち出したのも賢明なとこだったのではないかとも思う。わたしが娘を救出して戻る姿をすぐに人が見たという状態だったけれど、なかなか戻ってこなかったら黙って舌打ちした人だっていたんではないかとも思うしね。

2009年5月7日更新分「ばったばた」
それに本当にわたしを傷つけたければ、ここでひとことある種の言葉を言えばいいことで、そんなことをその男の子はするわけじゃない。

ひとことっていうか、まあひとことじゃないかもしれないけれど。わたしがここで言われて一番傷つくだろうって言葉なのだけれど。それはこういう言葉なんだ「そんな子、一人で出しやがって」っていう類のこと。突然起きうるトラブルに対して、オノレの力だけでは対処できないことがわかっている。そういうことがわかってるくせに単独行動させるから、人に迷惑をかけるようなことが起きるんじゃねーのかバカヤロー、ってなこと。
そうなんだよね。そういうことなんだよね。でも、大人の階段を上がっていく中で、親の手を離していく離れていくことで、本人に得られる力は果てしなく大きいってことを実感で知ってしまうと。なんつーか、世間の善の部分に頼ってるとこ、やっぱりあるんだと思う。そこをピンポイントで突かれたら、まあキツいよなあと思う。善だけじゃなくて、天候や運にもまあ頼ってるんだけど。今日は変わったことが起きませんようにとか、明日は土砂降りになりませんようにとか。でもさ、どこか善に頼るところがあるからこそ、ズルいことはしちゃいけないとも思うし、伝えることとかごめんなさいとかありがとうとか、そういうことをおろそかにしてはいけないのだと思う。
迷惑かけて、育つんだよな、と思う。実際そういうとこ、あるよなと思う。そして迷惑かけながら育ったときに、迷惑に対しての後ろめたさよりも、成長の喜びの方が勝つんだよなと思う。これが親のエゴだ。
昨夜、夫が帰ってきて。「ちぃちゃん、電車来なかったんだよね。人がたくさんだったんだよね」って言って、娘はうんうん言ってて。「ちぃちゃん、がんばったねえ」って言ったら、まあ満面の笑顔で「うんっ!」って答えるわけだ。そこでぞくぞくっと喜びにふるえるわけだ、かーちゃんは。
今日学校で、個別課題の時間に日記を書いていて。電車のトラブルのことを支援されながら文章にしていったそうで。その報告が連絡帳であった。その指導の中で先生が「おかあさん」と言ったら、娘は満面の笑顔で「うれしい!」と言ったそうだ。がんばったんですね、本人は、と。不安だったというネガティブなところは残っていなくて、自分ががんばったところでおかあさんが来て「うれしい」って方が本人には強く残っていますよ、と。で、ここでまた、ぞくぞくっと喜びにふるえるわけだ、かーちゃんは。
だからさ、いろんなことあって込みなわけで。その「込み」ってとこに周囲に理解をお願いして巻き込んでいかなきゃならないことってのは忘れちゃいけないと思う。だから地道な「ごめんなさい」とか「ありがとう」とかってのは大事なんじゃないか、とも思う。そこの上に喜びってのがあって、その喜びってのを支えてくれるたくさんの人たちが存在するってことを、忘れちゃいけないんじゃないか、と思う。