リツエアクベバ

satomies’s diary

結局のとこ、整理できない

ひとりをちょっと見ただけじゃわからないと思う(2007年2月22日更新分)

街中で人がすれ違う。なんだアイツは、ってことはあると思う。その「なんだアイツは」って時に、なんつーか、すぐにこうだと判断されてしまうことというのは、本当によくあることなんだ、と思うようになった。
もちろん、その、あるひとつのことで判断されても仕方がないことなんだと思う。街中で人がすれ違うってのはそういうことだ。とも思う。
そういうときに救われるような思いをするのは。と、こういうときに例に出しやすいのはkmizusawaさんのこういうとこだったりする。

そりゃ安全のためシートベルトはすべきですよ、そんなことたぶん親もわかってるよ/kmizusawaの日記

コトの想像や推測がどうってことを越えて、ひとつの誰かの出来事を、点ではなくつながっていってる線でとらえようとしている考え方というか。そうなんだよ、人って点で生きてるんじゃないんだよ、線の中で生きてるんだよな、と。
あの飛行機の件でいえば。「今まで飛行機に乗せてきた経験」ってのは、単に主張がどうのってことを越えて、その経験の最初にどんな風に思ったんだろう、着陸して降りたときに達成感はあったんだろうか、とか。お嬢さんの混乱に対して、対処していく線というのは何回かの搭乗のときにどんな風に進んできたんだろう、とか。
結局さ、危険という判断の元に、現在の判断の点として「今までの線」を話す機会も与えられず、全てぶった切られたという感はあったんじゃないか、とわたしは思った。
搭乗の前に事前に言っておく方法や手段はあると思う。「点」で判断されるのも仕方の無いことだと思う。でも、どういった「線」があって、この「点」があるのだろうかと思われることなく、権力が行使されたというのは、それは本当におつらかっただろうとわたしは思った。
毎日新聞の記事でいえば、ここを「障害者理解」にもってくること。それは現在の、こうと他者から判断されてしまいかねなにわかりやすい「迷惑」をそのまま受け入れろ、ってことではないんだと思う。そこには続いている「線」があるということ、「点」で判断されてしまうということ。そのことに対して「生きている線があるんだ」と理解されたいこと。そんなことなんじゃないか、とわたしは思った。単に搭乗拒否という結果を越えてね。「線」はあってもここではこういう判断をさせてもらいたいと。そういうことであったなら、と、わたしは思う。
障害に関してのこと、話してもうまく理解されないことというのは多い。それを、そうじゃなくってこうでと説明しようとしても難しいこともある。その、「そうじゃなくって」と説明していくときに、自分の中の痛みの部分を切り取って、わかりやすいように整理して出していったりする。その「痛みの部分を切り取って」という作業は、いろんな意味でつらい。
わからない、わからない、もっとちゃんと言ってくれなきゃわからない。そういう対話の中で、わたしは天竺堂さんにすげえな、と思ったことがあって。わからない、わからないという相手に「理解のために、内在する問題を希釈させようとしてないか」と。希釈という言葉が光り輝くほど、そうか、と思った。

絶対まとまらないと思うこと(2007年2月24日更新分)

今読むと、全然整理できてないなあと思う。でも今同じことを書こうとしても、やっぱり整理できないと思う。だからやっぱり伝えるのって難しい。

私がもし車椅子で生活していたなら、初日の物産展には行かないし、街に出る時には比較的人通りの少ない時間帯を選ぶ。小さな子供を連れて外出するなら状況に応じてベビーカーとおぶい紐を使い分ける。奇声をあげる障害を持っている人の親なら、お店の人に事前に声を掛けたり他の客にも配慮する。
弱者からの気配りも必要では/悪徳不動産屋の独り言

「線」というもので考えるならば。この発言が出てくる「線」を考えるという線も当然あると思う。
でも。なんだかえぐられるような痛みはあるよ。顔を覆って叫びたいような気分にもなる。
車椅子で混んだところに行く「迷惑」。でもその人がもしもそのときに「社会参加の喜び」をもっていたとしたら。その喜びは他者の迷惑の上に成り立つではないか、と事実にわたしはうなだれる。あのさ、車椅子って座ってる高さだからさ、立ってる人から与えられる「一瞥」は、位置的に「見下ろされる視線」で、それはそういう意味でもつらいんだって。そうかあ、とか思ったな。
まだ電車に乗るときのベビーカーが認められていなかった頃。友人は駅で何度も「ベビーカーたたんで!」と、怒鳴られるように言われてた。なんでもないように苦笑いしながら、抱っこ紐を使って子どもを抱き直す。重度のてんかんの発作を繰り返していたその子は、ぐにゃぐにゃとしてとても抱きにくかった。細くて小さくて、一見赤ん坊のようにしか見えなくても、幼児分には伸びた手足がだらりと抱っこ紐に垂れ下がる。「ベビーカーたたんで!」と叱責する駅員には、その子の状態はわからない。スキあればベビーカーのまま駅に入ろうとしている母親に見えたのかもしれない。でもさ、ぐにゃんとした子を抱っこ紐って、それなりにちょいと作業はいるんだよ。だから駅員が見えるタイミングとして、叱責したくなる人物と映っていたのかもしれない。
「なんで言わないの」と聞くわたしに、「いつもいつも同じ駅員さんがそこにいるわけじゃないし、いちいち言っていてもキリが無い。言うたびに自分がどこかつらい思いをするのなら、迷惑をかける親だと思われていた方がいい」と。わたしは黙って下唇を噛む。友人はからからと笑う。多分、端から見たら、迷惑行為をいっこうに意に介さない母親だったんだろうと思う。もう少し大きくなったら、子ども用の車椅子を使うようになった。怒られなくはなったけれど、その頃はまだ移動の手段や状況によってはベビーカーの方が軽くて取り扱いは楽だった。他者への迷惑を断罪していく傾向が強いと、やっぱりそういうとこで負担は増える。
人に迷惑をかける。そのことに対しての自覚、配慮は必要だと思う。でも、そのことができない時の自分を「許す」ということも、わたしは必要なことは多いのではないかと思う。そうじゃなきゃやっていけないことはいっぱいある。
もしもわたしの友人が上記のことを言ったならば。多分わたしは相手の肩をモミモミなんてことをやるんじゃないかと思う。それは本当にその通りかもしれないが、すり切れてしまうよって。
まあなんというか、そういうことかな、と。