リツエアクベバ

satomies’s diary

16年前の正月

 16年前の正月は、どちらの実家にも行かなかった。正月だのなんだのってこととは無関係に日常だった。ただ夫の休日。夫といっしょに行く小児病院の面会。
 10月に生まれた娘が生後から全く体重が増えずに入院。入院で様子をみながら体重増加傾向が見られたら退院。その後2歳頃に心臓の手術を、という話だった。
 しかし。3100グラムというダウン症の子にしてはまあいいじゃんいいじゃんという体重で生まれたのだけれど、その後、入院中も全く体重は増えず、そればかりか逆に減少傾向が出てきていて。そして肺炎にかかりあっという間に昏睡状態になった。12月の半ば頃に人工呼吸器をつけて、面会時間は2時間から30分に減らされ、ただ保育器の中にしばりつけられてこんこんと眠る裸の赤ん坊を眺めるだけになった。
 暮れから乳児病棟の中では、正月に一時退院の子が出ていき、ベッドがまばらになっていった。ナースステーションのガラス越しに常に様子がみられる位置の、大きめの部屋だけれどベッドが4つの、重症児ばかりの病棟では誰も一時退院ができなかった。
 どっちの実家に大晦日に行くか元旦に行くかとか、二つの家が自分の家のメンツ争いにわたしたち夫婦がネタになっていくような恒例だった暮れから正月。この年末年始はそうしためんどくささから全くもって開放された。正月でもなんでもなく、病児を見舞う生活ですのでよろしくと。しーんとした感じの雰囲気の自分たちだったけれど、誰に気を遣うことなく年末年始の自分たちだけのための買い物は、実はそれなりに小さな開放感があった。
 元旦の朝、餅を食べたのかいつもの朝食だったのか全く覚えてない。大晦日である前の日にどんなテレビを見ていたのかも全く覚えてない。元旦の朝ずるずると午前中を送り、午後から始まる面会時間に少し早めに支度をして家を出た。
 病院に入り入院病棟に行く廊下は人の気配が薄く、止まったままのようなエレベーターのボタンを押し、乳児病棟の前の扉を開ける。靴を脱ぎ下駄箱に入れ殺菌されたスリッパを出し、割烹着のような保護衣を着て病棟の中の扉を開ける。廊下の洗面所で手を洗い、消毒をする。そしてまた病棟内の廊下を歩き、一番奥の重症児ばかりの部屋の扉を開ける。
 いつもの休日の面会の保護者のいつもの顔。こんにちはと言ったんだかおめでとうございますと言ったんだか、これもすっかり忘れてしまった。娘がこんこんと眠る保育器の前に行くと、看護婦さんがばたばたとやってくる。
 「昨日輸血をしました。状態がよくなかったので外側から助ける形での輸血です。主治医からの説明が必要なのですが、なにしろ年末年始のため主治医が走り回っている状況です。説明等遅れることご容赦くださいと伝えてくださいとのことでした。」とのこと。
 イエスもノーもなく、そうかと思う。ああそうか、と思う。わたしがわたしの体で作ってやったものではもう足りなくなってしまったのか、と思う。わたしの体とこの子の体の間に別のものが入ったのだな、と思う。しかたがない、しかたがない、しかたがない、と思う。
 その頃、そんな日がそれなりに日常だったんだけど。病棟仲間と楽しいおしゃべりの時間もあったのだけれど。でもこの日、この16年前の元旦をこの後どんな風に過ごしたのかは全く覚えてない。ああそうだ。30分の面会時間が正月は少し長めにしてもらえたんだった。
 また同じようにぐだぐだと午前中を過ごし、少し早めに支度をして家を出た2日。保育器の中の娘からふと視線を窓にやると、雪が降り始めていた。なんだかすごい勢いで降り始めていて、夫と顔を見合わせて「凄いね」と言う。病棟にいたのはとても短い時間だったのに病院を出ると、雪はもう積もり始めていて。ああ困ったねとか、今年初めての雪だねとか、なんかどうでもいいことを言っていたように思うのだけれど、やっぱりたいして覚えてはいない。でもなんとなくあの雪は忘れられない。温度が保たれた病棟の中からふと見えた窓の外で激しく降り出した雪。
 この正月に入る前の12月には「2歳頃の手術では間に合わない、1歳頃に」と言われていたのが、「1歳より早く」に変わり、「状態が少しでも改善したら手術に向かう」との説明があった。年が明けていよいよ手術までのスケジュールが開始された。2月の頭に根治手術。体重は出生時より一キロ減。術後さらに3ヶ月の入院期間。5月頃からやっと、思い出に色がつき始めたような記憶。それからはずっと極彩色の生活。しあわせだなあと思う。