リツエアクベバ

satomies’s diary

「プラダを着た悪魔」と、再度アレ

 メリル・ストリープが堂々出演、ってことで観たかった「プラダを着た悪魔」。やっと観る。
 ってここで、自分が数日前に入れた文章を引用。

 フィクションとは現実に内在する真実を、そこに到達する道を凝縮してわかりやすくする。到達させるためのあそびも構成に仕込むことができる。あそびがあるからこそわかりやすいってとこもある。
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 ミランダのことを「悪魔」だと全然思えなかった自分がいた、冒頭のシーンあたりからでも。「悪魔を演じてる」ってそういう前評判に対して「これで?」ってのも思った。
 社会的な地位を獲得している、特に普通の人間から言って尋常じゃない地位を獲得している、ってことは、それだけの力をもっているということで。その「力」の中には、当然人を育てる力ももっているんじゃないか、とも思う。その人がどんな育て方をしているのか、ということ。その疑問が解明できていくまでは、かじりついてもついていくということは必要なんじゃないかと思う。
 ただ、厳しい上司は悪魔に見える、というところがある。それを大きくデフォルメかけた、という解釈。そして「かじりついてもついていく」というところで、上司からの命令に対してデフォルメをかけているという解釈。
 ああミランダだ、とふと思い出すあるマダム。そのマダムのことを書いた文章をgooから引っ張り出す。

アンチエイジング:2 /S嬢のPC日記
女性を部下として使うときには、現在の能力がどうかということよりも、個人の資質として「気が付く子かそうでない子か」ってのが重要なんだっておっしゃってました。
その資質さえあれば、どんどん伸びるのだというお話でした。

 このマダム、新人にとってはまさにミランダという印象があるんではないかと思う。ものすごい厳しそうだったもの。そしてわたしはこの自分が書いた文章の中で、マイナス部分でのミランダっぽいとこをそぎ落として書いているように思う。だってかっこよかったんだもの。目線は厳しかったけれど、わたしが言外に走らせる思考に関しての目線の細かさも脱帽だった。
 実際彼女の元で部下として仕事をするとしたら、かなりきつそうだと思った。一目見れば使える子か使えない子かわかる、とばしっとおっしゃってたときのムードは静かに迫力あったしね。
 で、ミランダの繰り返す「That's all.」。コレ要するに「こっから先はテメーで考えろ」ってことなわけで。なんだかんだ言われるよりも、人を育てる要素がある言葉だと思う。ただし「教えてくれなきゃわからないです」の人は確実に置き去りにされる。
 ここで思い出すのがここんとこしつこくしつこくからみ続けた話題なわけで。「兄の人生の物語」は、最後のピリオドを入力した時点で「That's all.」。そこからが始まり。
 tinkojiさんがウェブ上に残していく線はわたしにとっては、アンディにとってのナイジェルだった。tinkojiさんのブックマークコメントは最初からあちこちにヒントをばらまいていたもの。一個の視点ではなく両輪の側面で進もうとしていた線。

12月21日の先生 - リーバイラオスー

 へっへっへ。知ってたよん、と思う。
 何かに疑問をもつときに、その疑問に対しての自分自身にとっての資料になることを集めていくこと。疑問をもつときはそのことの始まりかもしれない。そしてここに立ち戻る。

「正しい質問には正しい答が含まれている。迷うのは問いのたて方がまちがっているからだ」。(AIKI