リツエアクベバ

satomies’s diary

はあ〜〜

 fuuuuuuunさんとこのブクマから飛ぶ。

「心配してくれてありがとう」/ 他者と私とAS(アスペルガー症候群)
そうしたら、相手からメールが届いた。「ありがとうとか、心配かけちゃったねとか、そういう言葉がなくて悲しかった。アスペルガーとか関係なく、そういうのは大事なことだ。しろさんにとって私は何なんだろうって複雑な気持ちだ」と書いてあった。
これを読んで、「ああ、またやってしまったんだ」と思った。

 はあ〜、っつ〜かなんつ〜か。そうかあとか思った。思ったのは要するに、こうやって自己評価を下げていくんだなというか下げさせられていくんだなあと思うということ。
 定型非定型関係なく、この話に出てくる「相手」がおかしい。この流れの中で「しろさん」にこの要求をすること自体おかしい。
 他者に対して「心配する」という心理や行為行動は「自主的に行うもの」であり、いわば「自分が決めて勝手にやってる」ことだと思う。大胆な言い方をすれば「金を貸すときは返ってこないことを覚悟して、自分が貸すという選択をしたことに対して自分で責任をもつこと」みたいな感じのことと似てるようにも思う。「『貸し』を作ってやったのだから、その『借り』に対して認識をもて」みたいな感じ。なに言ってんの?とか思う。
 大体この流れの中で、言ってしまえばたかだか言葉をかけたくらいで、即返しくらいのタイミングで「感謝をもて」ってこと自体、おかしい。この人の満足やアイデンティティのために他者が存在しているわけじゃない。
 「ありがとう」という言葉をもってくるならば。むしろ逆なんじゃないかと思う。「心配だ」と。「連絡して欲しい」と。そして「連絡が来た」と。だったらよ〜、「連絡してくれてありがとう」だろうよ。「わたしの心配に応えてくれてありがとう」だろうよ。
 定型非定型というのは難しいなあと思う。自分にかけられる他者の一言に対して、「非定形だからか…」と思ってしまうのかもしれないと思った。わかりにくい脳の迷路の罠にはまってしまうということかもしれない。こういうことが非定型に分類されるタイプの人の自己評価を下げていくのか、と思う。そのことになんかため息。
 ngmkzさんは定型非定型の仲立ちになるような文章がうまいと思う。以下のエントリを再読に行く。

想像力を使って自閉症者の立場から自閉症スペクトラムと引きこもりを考えたらどんな比較ができるんだろう(その2)/かへる日記 (FRGFRG304)
「自閉」という名の付く障害故に、自ら社会に対して「閉じている」と思われがちだけど、そうじゃなくて社会的文脈というに対して弱いというのが、その障害です。

 「心配してくれてありがとう」というエントリの話の中で、「社会的文脈に弱い」状態になっているのははてどっちだろうと思う。「連絡を返すだけで精一杯」であろうという文脈が読みとれていないってことのようにも思う。
 この件で非定型の方が「学習」しようとするのであれば。「他者に対して要求するということは慎重に行わなければならない」って、それだけでいいような気がするな。