リツエアクベバ

satomies’s diary

これが多分最後

 書いてみて、どうしようかと保存のままにしておいたものをアップ。これが多分最後。

兄の人生の物語 - ロハスで父が死にました

 創作というものを読みたいように読めば。ダメでダメでダメでダメで、もうどうしようもないくらいダメで。そのダメでダメでダメでの我が子をなんとか「普通にしよう」と思い必死に良かれと教育し、また「普通ではない」奇異に感じられる行動は全て禁じた母親。兄の人生は全てにおいて母の検閲によって成立するという事実。どうしていいかわからない父親。ただ見つめている弟。そして兄自身が選んだ人生は「利用される」という要因でも「自分の意志で選んだことを認められる」ことだったとさ、というお話かと。
 この「ダメでダメでダメでダメで」ってのをもってくるために、描写を詳細に並び立てた。(ああダメじゃん…)と人が思う描写が構成上必要だった。
 ところが。人はこの描写に怖れおののき、そしてこの描写の人物と暮らす家族に感動をしてしまったということか。するってえとオチにいかない。ってことだったのかな、と。
 描写を具体的にすればするほど、読者にとって「ああいう人」的イメージがそれぞれに喚起される。それぞれのイメージの中で喚起される「ああいう人」。ライフステージによる障害像の変化も辻褄が合わないことを知らなければなかなかわからない。障害をもってくると、障害上で起きることとして書いてあることに疑いをもつのはなかなか難しくなるとこはあると思う。感覚として手出ししにくい壁はあるのではないか、と。
 創作で「ダメでダメでダメでダメで」みたいなとこにもっていくならば。もっとその描写も突拍子も無いとこでもよかったんではないか、と仮定してみる。そこで。それじゃあラストが生きないことにならないか、ってのがある。
 リアルにしなければならない必要性とは。しかしリアルな描写でラストにいけない観客。出口の前の密林が凄すぎて密林を出られなくなってしまうのかもしれない。密林に置き去りというのが目的でないならば、作者自身が損をしたということかもしれない。いやもしかしたら。はりめぐらした密林の中にいるということ。そこを書くという意図があったのか、とか。書きたかったのはその密林だったのか、とか。
 反響のエントリの数々の中で、この筆者の読者の人たちに解説をして欲しかったなと思う。当たっても的はずれでもいいから。他の作品と毛色が違うとか、実話か創作かとか、そういう話ばかりだったようにも思う。それはそれで残念。ちなみに16日更新分で「そうか!」と思ったのは上記の内容自体ではなくもう少し原点の部分。これは自分の中においておこうと思う。