リツエアクベバ

satomies’s diary

考えることと表出

 9月21日分「ちゃんと言えなかった」アップ後、たこぽんからメール来る。電話でぶつぶつと言い、その後検索でいろいろ閲覧しあの話はこんなヤツだよと、入れたメールの返事。元々は全然関係ない、8月の頃はどんなだったかなんて話からちょろちょろ横道にそれて、ああ8月の時期の近所の夏のお祭りで風呂で7色に光る変なライトを買ったんだぜなんて笑い話があって「その商品の販売URL後でメールで送るね」と言ったことのついでに貼り付けたURLだった。
 URLを貼り付けて、そのコメントになんてことないコメントつけて送信する。ちがうこの話にはもっとホントは言いたいことがある、と思った。で、その、もっとホントは言いたいことを、はてな編集画面を開いてばば〜っと書いた。
 たこぽんは結局、自分宛てと自分宛てということではないはてダと、この話に関して二種の情報をキャッチ。そこで返ってきた反応に「おお」と思った。

読み研のページは、解剖学なんですよ。死んだ生き物をバラバラに解剖して調べても、そこに命はないという。

生きている文章を生きたまま感じ取るのは読解力なのか、感受性なのか?感受性は個々人の能力によって大きく左右されるから、細かく分析してパーツを調べさせたほうが授業としては進めやすいのかも?
(たこぽんからのメール:私信の公開は許可取りました)

 科学的「読み」の授業研究会(読み研)に戻る。前半の、文章の構造をとらえる内容の文章を熟読する。息子の授業で中心とされていたのはここでいうクライマックスのとらえ方の「B」だった。

Bは「でも、僕はかくれて、ヒロユキの大切なミルクをぬすみ飲みしてしまいました。それも、何回も…。」をクライマックスとする意見であり
科学的「読み」の授業研究会(読み研)

 「悪いとわかっていることをやってしまうことに追い込まれる戦争の悲惨さ」ということを簡潔に表現した一文が板書され、それをノートに書き写したということだった。そしてそれはそのまま出題された。
 授業で教えるのは文章読解のための文章構造と、クライマックスのテーマ理解なんだろうと思う。科学的「読み」の授業研究会(読み研)のモデル授業では、構造を教え、文章のもつ「命」に向かっていく道筋を引くもので、そこで文章自体がもつ力を教えるものではないのだと思った。それは教えて教えられるものではないからかもしれない。
 わたしが「大人になれなかった弟たちに…」という文章で、迷わずクライマックスを「母は初めて泣きました」ととらえるのは、初めて産んだ赤ん坊が生死の境をさまよったという経験が、やっぱり色濃く影響しているのだろうと思う。わたしにとっては「初めて泣きました」の記載はもう全然ヤバい。自分の中で自動的に感情ががんがん動いてしまうスイッチを、げんこつでがんがん攻撃されてくるようなものだと思う。戦争が命を奪う悲惨さという理由重視はもちろんあるが、自分にとって珠玉の命が死にもっていかれるのは理由如何を越えて悲惨だと思う。
 そうやって寄り道して寄り道して寄り道して、ひとつの答えにたどりつく。

 わからないけれど。苦境の中でがんばってがんばってがんばって。そして棺に入らない「大きくなっていた」我が子の姿に、我が子が生きていたという、そのとても単純な事実をつきつけられて。がんばりの線は切れるよな、と思うんだけどな。
「ちゃんと言えなかった」

 わたしの娘が生死の境をさまよっているとき、わたしはその状況で「がんばってがんばってがんばって」いたんだと思う。疎開をしなくてもいいし、赤ん坊のミルクを盗み飲みするような状況にもないし、着物がなくなるまでミルクを求め続けなくてもよかった。でも「がんばってがんばってがんばって」いたんだと思う。何かをきっかけとしてその線が切れてしまいそうになるギリギリの線の中で。
 そうやって思考と表出をくり返してやっとたどりつく。その構造が見えたときに、ふっと思い出したこと。また別の構造が見えたこと。
 9月16日分「コレ、いいなあと。」。ここでb_say_soさんの文章にふれた。この彼女のエントリにリンクされた元文章は、わたしにとってははっきり言って別にどうでもいいものだった。たいして想像力をかきたてない類にすっと分類されるもの。だからわたしが彼女がリンクした文章をどうとらえるかなんてことは、はっきり言ってどうだってよかった。ただ、感じたことがあったんだよね。b_say_soさんが、わたしが↑の「初めて泣きました」で動かされているような感じのもの、b_say_soさんがそういうものに向き合おうとしていること、そのことがわたしにとって目を離せないものになったんだと思う。だからその後の展開に材料投げをしたんだろうな。