リツエアクベバ

satomies’s diary

昨日の日記

 わたしの実家に行く。横浜から東京へ。息子がこっちの中古ゲーム店に行きたいと言うので「行っといで」と出す。駅前あたりの店、駅まで徒歩5分。
 途中、全力疾走で帰ってくる。うんこしたくなったそうで、よく知らん駅ビルのトイレより家のトイレがいいと選択して、クソ暑い中クソしに走って帰ってきてまた全力疾走で戻っていく。
 汗だくだなあ、と。しょうがねえなあと駅まで行く。目的は駅前にあるユニクロ。着替えに500円のTシャツを買う。
 駅から5分で急に静かな住宅街になるのだけれど、たった5分かそこらで街中。大手スーパーが数軒、駅ビルに駅前ビルに駅前アーケードに、と、とにかく何でもそろっている感じ。駅の向こう側にもこっち側にも商店街。電器屋も携帯ショップも町医者も何軒もあるし、ケンタッキーもファーストキッチンロッテリアもあるし、飲食店はとにかくなんでもあるのになぜかマックは無い不思議。
 駅からこっち側の商店街で縁日をやってる。地元の人間が用意した出店がたくさん出ている。子ども用のおもちゃのくじの出店も何軒も。八百屋はトウモロコシを焼き、冷えた果物やトマトを売る。魚屋は店先で炭火で魚を串に刺して焼き、肉屋は焼き鳥を焼いて売っている。焼きそばだの金魚すくいだのヨーヨー釣りなども出していて、商店街をちびまるこちゃんの着ぐるみが歩きながら子どもと写真を撮ってた。商店街の人間らしき人のジャグリングや飴細工も。地元の子どもたちには夏休み最後のイベントなんだろうな。
 店先にフリマを出している人がいて、そこに並べてあったカービーのばかでかいぬいぐるみに息子の目が止まる。
 「欲しいの?」と聞くと「うん」と答える。フリマを出してる人が100円だと言うので買ってやる。デカすぎて入る袋が無いよと言いながら店の人がごそごそとデカい袋を探し出してくれる。コレを欲しがるにはコイツもデカすぎるよと息子を指して言うと、店の人が笑う。
 夕食を食べにイタリア料理店に行こうと両親が言うので、夕刻、連れだって駅まで行く。縁日を通って行こうよ、と、また商店街を通る。ごそごそと人混みの中を歩く。
 母がふと腕を引く、「アンタ、あの子に会った?」と。ん?と聞くと、小学生のときに6年間同じクラスだった知的障害のある女の子がさっきそこを通ったよ、と。ああ全然気づかなかった、と母に答える。いやもう「子」じゃないんだけど。
 娘が生まれてから、母はこの子、いやこの人に以前よりも関心をもつようになり、出くわすとなんやかんやととりとめもないことを話したりしてるらしい。こんにちはだの暑いねだの寒いねだのとかそんなこと。この同級生に対して「いい子」でもなんでもなかったわたしのことも、彼女はしっかり覚えているそうでわたしの母のこともそれが誰だかわかるらしい。自営業で裕福な家庭であることに加え、土地持ちで地元に何軒もマンションをもち、生活は安定しているらしいが、通所してるらしき様子はなく、いつも近所をふらふらと歩き回ってるらしい。
 困っているのは駅前のテナントビルに大きなスペースで入っている書店。広い店内の中をうろうろと歩き回りながら、手に取る書籍をひとつひとつ、指にべったりとつばをつけてめくっているそうで。悪評としての評判で、彼女が店に入ると店員が目を光らせ、家族に買い取りをさせたりもしているらしい。
 「知的障害がどうのってことじゃなくて、ダメってことはダメだよねえ」と母が言う。その通りだと思うとわたしが答える。自立と野放しでは決定的に違うよねえ、などと。「ただね」と母が言う。「親や家族が野放しにしてる人を周囲が注意するのは難しいよ」と。書店は彼女を見張り、そして苦情は家族に言い、家族は買い取る。その繰り返しになっていると。「悪循環だよね」と。う〜ん、査定されているのは親だよね、まあがんばるわ、などと答える。障害をもって生きるということと社会との折り合いと。そこ考えていかんとね、なんてことをとりとめもなく話す。