リツエアクベバ

satomies’s diary

自由研究関連映画鑑賞二本目

 息子が自由研究の題材にエジプトを選んで。でもって、関連する映画を見せようとかーちゃんが息子に映画を押しつける企画第二弾は「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」。
 先日「十戒」を観ているので、「失われたアーク《聖櫃》」の価値は理解。モーセと神様との交信の中十戒が書かれていく様と、そしてその十戒が書かれた石盤を箱に入れたのは、要するに「十戒」で予習済み。その箱が「聖櫃」となり、時を越えて、人と人が争って得ようとする秘宝になっているという流れ。またエジプトは古代遺跡が多く、発掘していく様、なんてのを見せたかったのもかーちゃんの意図。
 さんざん人が争って、というシーンが連続。そして最後に「聖櫃」の蓋が開く。目をつぶっていたインディとヒロインは助かり、その場にいて目を開いて見ていた人間はみな死ぬ。箱の中から現れ出る魔物と空からの炎の中、見ていた人間がみな死ぬ。その場でそれを見ていた人間がみな死ぬと、空から蓋が降ってきて、箱はぴたりと閉まる。秘宝の蓋を開いた途端の大虐殺。
 どわ〜っと人が死んでいく様を見ながら。ん〜、ねえ、と息子と二人で。相手側の子どもを全て一気に皆殺しにした「十戒」のあの神様だからねえ、このくらいのこた〜やるだろうよ、と。と、二つの映画の中で出てきてしまったそんな感想。
 「十戒」と「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」の二本は明日が返却日。息子関係なく「十戒」はもう一度観るつもり。どうもファラオの哀しみが気になって仕方がない。神の業で自分が病に倒れても、奴隷解放に対して首を縦に振らなかったのは自分を越えて王家というものを守らなければならなかったということなのか。子どもを殺されたときの悲しみや、そしてモーセの神の存在を感じて自分に祝福を、と言ったときに、モーセに断られたときの表情とか。ファラオの配役にユル・ブリンナーもってきてるもんなあ、とか。