本日のわたしの流れですが。早朝、昨夜の夜中に書かれたコメントを携帯にて確認。7時半に家を出ました。出先にてマルコさんからトラックバックが入ったことを携帯にて確認。しかし携帯からは本文は読めませんでした。その後9時頃にマルコさんから入ったコメントを確認。トラックバックに関して読むことができたのが早朝からほぼ12時間経過したくらいの時刻。そして入ったコメントは削除されていました。
でも知らん奴に、挨拶も無しに、いきなり下品なタイトルのブログで母を妄想のオモチャにされて、そういう下劣な行為を「親」を名乗るブロガーに推奨されたら、腹立つ。腹立つのも当然でしょ?腹立てないほうがおかしい。母を愛し尊敬していればね。
怒りの記録/マ儿コの日記
以下、わたしが興味深く感じた場の興味深く感じた部分の引用です。
- こういった言葉がいま美醜(美醜でなくともいいけど)に悩む人間の前に現れたとき、どのように働くのだろうかと考えた。それはある価値観に対抗してもう一つの価値観にしがみつかせることになるのではないかと。
- 「美と賢さは完全に次元の違うものだと思う」を見て、ここでマ儿コは(←主語など補足した)自意識を考察から捨てているのだな、と気づいた。この姿勢は確かに賢さである。これを極めることは、達観とは違った道による、人間の一つの到達点だろう。しかし次元が違うとの理解に到らない人にとって、単に賢くあろうとすること(それは賢くはないんだけど)は毒になるのではないかと思っているので、ぶくまとかでちょっと書いてしまったというわけ。
ここが主眼となっているとわたしが感じた文章に「許さない」と出てきたのでびっくりしちゃったんですよね。びっくりして自分がブックマークしたい文章がブックマークできなかった。その自分がなんかすごく卑怯に感じたんだな。でもびっくりを引きずったその後の行動もやっぱり卑怯だったんだろうな。と、思うのが結論です。ごめんなさい。
で、↑の引用部にそうかあと思いつつ。その結論を引き出される中で。誰かを否定したり冒涜したりということではなく、わたしはきれいって好きだよなあと思ったということ。わたしはきれいな人、好きだもの。それは品評会のようなものではなく、自分を大事にすることの表現のひとつでその演出の結果だと思っているから。と、いうことだったのでした。