リツエアクベバ

satomies’s diary

今日のはてなブックマーク:その2

母について/fuuuuuuunの日記
しかし母が渡したと思ったものと私が渡されたと思ったもののギャップが大きかろうと、母が寄越し損ね私が受け取り損ねたもののほうが大きかろうと、その滑稽さやせつなさのようなものを含めて「そういうもの」だと徐々に私も思いつつある。

 う〜ん、いいなあと思う。文中の「でも母は待っていたのだろう。」ってのもいいなあと思う。親という存在は、自分にとって生み育ててくれる立場の存在と、そしてもうひとつ、間近で人生を見せる存在というものでもあるとわたしは思う。その間近で人生を見るということが見えてくるとき、渡されるものがまた生まれていくんではないかとも思う。道徳の教科書みたいな「母の愛」より、そういう方が現実的で、そしてわたしはそういうことを興味深いと思ったりするんだろうなとも思う。
 単純な「母的なもの」ってけっこう他者から学べたりもするんですよね。わたしゃきれいな洋服のたたみ方ってのは、実は19のときに友人♂の一人暮らしのタンスの引き出しの中身を見て学んだのですよ、わあお店屋さんみたいだとか言いながら。あはははは。うちのかーちゃんは、もっとぱぱっと雑。この友人のお母上はきちんとした方で、オヨソの女の子も間接的に教育したことになる。この教育は生きていて、わたしは子どもにまたそれを渡しています。
 そういやコレ。

身の回りのことが苦手/うどんこ天気
この人のお母さんは、雨の日は濡れて帰ってくるだろう子供を待ってお風呂を沸かしてくれたりしたんだろうか、と思った。

 これ読んだ数日後に、息子がずぶ濡れで帰ってきましたよ。この日はてっきり折り畳みを持っていったと思っていたが、実は忘れていたそうで。で、ずぶ濡れ。
 「今お風呂入れるから入りなさい、風邪引くよ」などと玄関から大騒ぎしました。真相を言えば本当の大騒ぎではなく、にちのさんとこ読んで学習した「母という存在の演出」だと思う、へへへへへ。息子がこの日、わたしに「母なるもの」を感じたりして記憶に残したりしたとしたら。その母的なものを間接的に渡したのは、実はにちのさんだ。そしてそれを渡したのはにちのさんがつきあっていた彼氏であり、そしてそのおかあさまだ。母なるものの連鎖。