リツエアクベバ

satomies’s diary

今日のはてなブックマーク:その1

朝トレのランニング〜依存の強い生徒さんのケース/特別支援学校って…へぇ、そうなんだ

 霞先生、うまい! 具体的な態勢として形から入ることが効果を見せることはあると思う。
 何を思って始めたのか忘れたけれど。娘が幼児期の頃連れ歩くときに、横断箇所でやっていたこと。横断歩道でも信号のある交差点でも。
 手をつないで歩いていて、横断箇所に来たら手を離して後方に回り込み、後ろから両肩に手を添える。横断のタイミングが本人に判断できようができまいが、判断の主体は本人という位置関係。右見て左見て等後ろから指示を与え、でも本人の視界にはわたしはいず、自分主体で交差点を見ることになる位置関係。横断のタイミングで後ろからゴーサインを出し、本人が一歩前に踏み出すとき。それは手を引かれて始まる一歩ではなく、自分で歩み出す一歩。渡り始めたらまた手をつないでも、横断は本人が踏み出す一歩からという位置関係。そのうち本人が判断をし始め、それでいいのかと振り返る。OKを出す。その地道な繰り返しと積み重ね。そんなことを思い出す。これも具体的な態勢として形から入った例だよね。
 それと。「少しでも走ってもらいたいと思っていました」ということ。その目標に対して本人に近づかせようと追い立てるのではなく、本人がその目標に向かおうとする態勢になることを工夫すること。こういうことよね、と思う。こういうことが、「知的障害児の教育で問われているのはこちらの知的能力」ということなんだと思う。
 すぐに目に見えることがあることばかりではないけれど。それでもこうした工夫の積み重ねからいずれ見えていくことがあるようにも思う、いろいろな形で。