これ、ずっと考えてて。う〜んとか思ってて。
と、思ってたら、この話、ケヤさんがもってった。
私信ってことで、タイトルがないや、まあいいや。
着こなしってことで、TPOってのがあるんだと思う。でもこのTPOってのをチョイスするのに文脈理解ってのがあるわけで。その文脈理解ってのに困難がある場合は?と、ちょっと無限ループになるわけです、わたしの頭ん中が。失敗経験を積み重ねてしまうと、一着着回し安全策ってとこにやっぱりなるよな、とか。
大元のfuuuuuuunさんのヤツ。もしわたしがfuuuuuuunさんだったら、と無理矢理想像するに、新聞屋さんの話は説教されるよりも具体的に解説して欲しい。だってわからないから起きることなんだから、わからないことを教えて欲しいよ。
で、自分の経験の中で無理矢理近いと思うことを引っ張り出す。
わたしが以前、関わっていた日本語のコミュニケーションスキルってヤツなんですが。わたしの学生と、その学生が教えを請わなきゃいけない相手という関係の二人がいて。そこにわたしがたまたま同席していたというシチュエーション。ここでは仮に「上司」とします。
上司:これはこうでこれはこういうことだ(教える)
学生:(尊敬のまなざしで相手を見る)
学生:…。感心しました。
上司:(むっとして学生を睨みつける)
学生:(相手の態度の急変についていけない)
さあて、これ、どう思います? わたしは同席していたので、割って入りました。「申し訳ありません『感心』という言葉の誤用です、指導します」。
で、即、学生にどんどん例文を渡していく。
- わたしは車についてよく知らない。友達が車についてたくさん知っている。すごいと思う。感心した。
- 学生が日本語について熱心に勉強する。先生は学生のことをすごいと思う。先生が学生に「感心だね」と言う。
- 先生が学生に研究について教える。学生は先生のことをすごいと思う。学生は先生に「尊敬します」と言う。
っていうことなんだと思うんですよね。わからないことを精神論でもってこられても困るわけで。(ちなみに「先生」という言葉は、教える教えられるという関係性が学生にはわかりやすく、立場を指定する例文によく使われていました)。
文脈理解ってことをしようとしたときに、ニュアンス等の情報の収集が困難な場合に、ニュアンスで否定されても困るんじゃないかと思う。じゃ何を材料にするかってことになるんだけど。
日本語教育って場合で言うと。日本語には場面の情緒変化が出てくる文字サインなんてのがあって。まあ一番象徴的なのは語尾の「ね」と「よ」などがあるわけです。だからコミュニケートに関しての文脈理解として危ういなんて自分で思う場合。相手の「ね」と「よ」の聞き分けなんてのが材料になるわけです。そして自分からの発語で危ういと思った場合は、相手の復唱をもってきて「○○ですか」「○○ですね」と確認を取っていくことで間を稼ぐというテクニックもある。この間を稼ぐ質問の中で、相手の語尾が「そうだね」とか「○○だね」と来たら、コミュニケーションは○かまたはまだ余裕アリで、「そうだよ」とか「○○だよ」、しかも「よ」の語調が強くなった場合はヤバ目引き時、とかってことがあるわけで。
そういう具体的な支援と解明ってのが必要なんじゃないかと思う。これからの発達障害者支援策ってのには。と、思うんですよね。発達障害児の特別支援教育に国が手をつけていこうとするならば。わたしはこの手の専門家の出現ってのに期待するなあ。発達障害児の教育にとって一番重要なのは、自己評価が下がることを防ぐことだと思うのでね。