リツエアクベバ

satomies’s diary

障害と支援と

 3月23日分「過去記事再読」で出した、聴覚障害をもった副校長の話。
 赴任のご挨拶のときに、「養護学校に戻れてうれしい」ということを何度かおっしゃっていて。ろう学校出身でろう学校の教員をされていて、その後管理職に。そして娘の養護学校に赴任以前は、普通の中学校の副校長をされていらしたと。それがつらかったと、養護学校に戻れてうれしいと。
 この先生が娘の養護学校にいた二年間、折に触れてそのことを、そのことの意味なんぞをよく考えていて。
 先日の娘の卒業式のときに、ああそうか、と、なんか腑に落ちた感じがした。
 保護者席の最前列に陣取ったわたしが見たものは。来賓の方の挨拶の時に、来賓紹介を司会の先生がされていく中で、この元副校長の方の順番のすぐ前にひとりの先生がすっとその方の視界に入るところに立ち、司会の方の言葉のタイミングに合わせて元副校長に合図を送った。元副校長はこの方の合図を食い入る視線でずっと待ち、そして合図に合わせて立ち上がり、スピーチをされたわけです。
 この元副校長が出席される会合で、わたしがそこに居合わせる機会があったとき。それは全て隣に筆記で現在の流れを渡していく方がいらした。周囲はこの元副校長の口話読唇に沿うための会話ということを、無理なく意識していたと思う。つまり、障害に対しての支援の体制というものが日常的に存在している場所だったのだと思う。
 卒業式の元副校長のお話を聞きながら、わたしはそんなことを考えていました。あの、「養護学校に戻れてうれしいうれしい」という言葉はそういうことだったんじゃないか、と。
 普通の中学は、支援という体制が養護学校ほど日常ではない空間だったんじゃないだろうか。必要な支援に気づかれず、自分から支援の必要性を言わなければならないことがあったんじゃないだろうかとか。そのひとつひとつに気苦労があったんじゃないだろうかとか。
 普通の小学校の障害児学級から、養護学校の中学部に進学させて。養護学校という場は、支援の知恵を振り絞る場、という感想がある。どうやって問題を解決していくか、そのための支援として何をできるだろうか、と。
 支援という知恵を振り絞る場所、ということで言えば、この元副校長の聴覚障害においても、先回りした支援というものがいくつもいくつもあったんじゃないかと思う。そのことが「養護学校に戻れてうれしい」ということだったんじゃないかと。
 でも本当は、「養護学校に戻れてうれしい」と言う言葉を言わせる社会であってはいけないんじゃないか、と、思うんですけどね。