リツエアクベバ

satomies’s diary

福祉と負担

 以前、福祉をお勉強している学生さんの教室で、ちょこっと話してくれって言われたときに話したこと。

 福祉って、なんかすごくいいことって感じがするんですよね。選挙のときの公約ってヤツに福祉がどうのって出てくると、いい人みたいな感じがする。福祉を学ぼうとする人も多いんだと思う。
 でも。じゃあ、隣にいる人の福祉のために、みんなちょこっと我慢してくれませんか?ってことになると、途端に福祉だ、わー、みたいな勢いがしゅんしゅんしゅんって小さくなるとこってあるなあと思うんですよね。
 自分は我慢したくないの、でも福祉は大事なの、ってことなんだけど、でも実は福祉ってそういうとこ目の前の問題としてあるようにも思うんですよね。たとえばテレビで障害者施設の建設や運営の困難さなんて出てくると、そりゃ福祉だ、わー、みたいなムードがあるんだけれど。でも、ではあなたのおうちの隣にその施設建ててもいいですか、ってことになると、え、ちょっと、待って、そりゃ困る、だってそのこれがこうであれがああで…、みたいなとこに行くというか。
 福祉って、そういうとこ内在してるようにも思うんですよね。

 ↑のね「正しくない親を許容する困難さ」ってのも、実はこの辺関連してくるんですよね。ヒーヒー言ってる母親に対して、それは大変だろう、ってことは、まあ思う人ってのはいると思う。
 で、ある日突然、そのとばっちりを食っちゃうことがあるわけだ。ヒーヒーの余裕の無さでキーって怒られちゃう。それはいわば、ヒーヒーの人が感じてきたことのその怒られ度数をちょびっと請け負うみたいな感じのとこもあると思うんですよね。
 とばっちりだからねえ、ダメなんですよ、ダメなわけ。この手の話題で延々とわたしだって言ってるわけです、ダメなんだよ、と。社会としてのコミュニケーション上、そりゃダメなんだよ、と。ダメなだけじゃなくって、ちょびっとでも同様の立場をもつ人間に迷惑かけてくことにもなるんだよ、って。
 でも、kmizusawaさんの行動みたいに、とばっちりってのわかってても、その怒られ度数の一端をもってくれたりする人がいると、なんか、あ、そっか〜、なんてことも実は思ったりするんだな。でもって、よし、またがんばるか、なんて思ったりもするんだな。
 なんてことはわざわざ書いとかなくてもいいことだし、正論でいくとヤバヤバのとこもあるんだけど。でも書いとこうって思ったのは、kmizusawaさんが「補足」というタイトルで文章あげるっていう行動に、ちょっとつきあいたくなったからなのでした。まる。
 ちなみにね、↑の□部分のお話の後で、この授業の先生がお話しされたこと。福祉の質を上げる、福祉の予算を増やすって一言で言っても、国の予算配分なんてのはあらかた決まってるとこがあると。だから福祉のための予算ってのを増やすには、国の収入自体が増えなくてはならないと。自分とこで我慢しないで増やすためには、たとえば他国の安い製品の買いたたきで伸びる企業からの税金等、他国への搾取って問題が同時に出てくるんですよねと。福祉というものをグローバルに考えなければならないという発想が始まっているんですと。わ〜〜〜、って感じで興味深かったですね。